水明の幻獣 〜蒼き水の音、白い森の足跡〜
乃木ちひろ
第一章 将星落つ日
1 北へ
自害せよ。
紀元前二一〇年。
寝台に横たわる体は完全に沈黙し、首筋に息づくはずの脈はもう触れない。震える指先で
背後に立つ壮年の男が寝台へ近づき、皇子の頬にそっと手をやった。
「苦しまずに逝かれたか」
「深い昏睡状態から毒を含ませましたので、恐らく」
「そうか。感謝する」
「顔を上げよ」
樹延は伏せたまま、固められたように動けなかった。
扶蘇が自決したのは、他ならぬ父、始皇帝の命令だからだ。黄門が持参した
五年前に扶蘇は、異民族の
実際、扶蘇が学ぶべきことは多かった。三十万の兵を率いた蒙恬から、流通確保の手法や指揮命令系統の統率、多数を相手に勝つための兵法。加えて長城建築という大規模土木工事の監理も行い、何もかもが扶蘇にとって、次期皇帝になるための場数になるはずだった。
にもかかわらず璽書には、五年間何の功績も上げていないことを非難し、次期皇帝には弟の
これはおかしい。開口一番、
始皇帝は官僚を血筋だけで決めず、能力のある者なら生まれを問わずに登用してきた。その父が、息子の才覚を分からぬはずがないのだ。だから璽書は偽作と疑い、蒙恬は再度
皇子が皇帝の勅令を疑り逆らっては他に示しがつかぬと、樹延と蒙恬に言って聞かせたのだ。
——ご立派でした。私もすぐに参ります。
蒙恬に支えられて、樹延は上体を起こす。
「涙を拭え」
両手で拝借すると、素早く匕首を取り上げられる。
「閣下、何を」
「お前の自決は勅命に無い」
「毒を調合したのは私です」
「せめてもの思い遣りゆえであろう。お前に罪はない」
「いいえ」
蒙恬の手にある匕首こそ、自決の勅命と共に扶蘇へ下賜された刃だった。
「どうか私を死なせてください」
「ならぬ。お前はあの勅命が本当に皇帝陛下の
そう聞かれれば首を横に振るしかない。樹延とてもちろん、疑わぬではなかった。
「
「お前の教育の
「滅相もないことです。私など殿下の足元にも及びません」
「璽書を、悪意をもって偽作した者がいる」
それはつまり、始皇帝が崩御したことを示す。死を伏せたまま、誰かが己の野心のために才気ある扶蘇を死に追いやった。始皇帝の勅命という、不可避の手段で。
「北へ行け、樹延」
奥歯を嚙みしめた樹延の肩に、
「毒を調合し殿下に含ませた。それを罪と申すなら、
「何を仰いますか。私はここで」
「時間がない。いつまでも黄門を待たせるわけにいかん。俺が時間を稼ぐ。今すぐに発つのだ」
蒙恬の目には、否を言わせぬ気迫が溢れている。幾度も死地を越えてきた武人の圧に、戦に出たことすらない樹延が敵うはずがない。
支度を整える間もなく、二名の兵に伴われ密かに城郭を出奔する。
北は、
秦の貴族の家に生まれ育った樹延にとって、それは過酷な旅だった。まず、追手を撒くため兵の一人が犠牲になった。
それから平原が砂漠になり、昼の酷暑と夜の極寒が交互に訪れる。大神の咆哮のような砂嵐に何度も見舞われ、耳の中まで砂だらけになりながら岩陰で耐えた。兵士は蒙恬と共に何度か北へ往復したことがあるらしく、オアシスの場所を知っていた。
砂漠を抜けると草原になる。遊牧民の移動式住居や羊の群れを見かけた時は、人が暮らしているというだけでどれほど安堵したことか。こちらに敵意が無かったからか、遊牧民は親切に一宿一飯を提供してくれた。
山に差し掛かったところで山賊に襲われ、兵は獅子奮迅の戦いぶりで絶命してしまう。頼りになる男だった。
一人逃げのびた樹延は、星の位置を頼りに北の深い森へと進んでいく。
城郭を出て三十日と、一人になってから十五日経っている。遊牧民にもらった干肉は食べ尽くし、この四日間は水だけしか口にしていない。
何も考えられず馬を曳き、ただ足を前に動かしていると、耳慣れぬ音がする。何かが近づいてくる。
働かぬ頭でなんとなく獣かと思ったが、視界に現れたのは人だった。一本にまとめた蜜色の髪をたなびかせ、走る女人。背後には剣を手にした男が迫り、追われているようだ。女の速さには目を見はるものがあり、男は背負った短弓を構え、女の背に向け放った。
パシュンと弦の音が二回響き、女が前のめりに転ぶ。何かが樹延の体中でざわめいた。
抜き身の刃を手にした男が、女へと距離を詰める。同時に樹延も背負った剣を抜いていた。男は樹延に気付いていない。
女は体を起こしたが、負傷していて思うように動けず、じりじり下がるだけだ。
男が剣を振り上げる。その背中へ樹延も剣を振りかぶった。自分が獣のような声を上げていると気付いたのは、男が振り返ったからだ。
両手で上から下へ袈裟に斬り下ろす。肩から入り胸の下まで来た辺りで止まってしまい、それ以上振り抜けない。体から剣が生えた格好で男は二、三歩ふらつき、仰向けに倒れた。
生まれて初めて人を斬った。頭も体も限界のはずの己の体に何が起きたのか、よく分からない。
女人と目が合うと、何か話しかけられた気がする。だが目の前がチカチカして何も聞こえず、やがて膝から力が抜け落ちて、真っ暗になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます