水明の幻獣 〜蒼き水の音、白い森の足跡〜

乃木ちひろ

第一章 将星落つ日

1 北へ

 自害せよ。

 紀元前二一〇年。しんの始皇帝の勅命に従い、扶蘇ふそ皇子はわずか二十二年の生涯を閉じた。

 

 寝台に横たわる体は完全に沈黙し、首筋に息づくはずの脈はもう触れない。震える指先でまぶたを持ち上げ、灯りを近づけて瞳孔が散大したままなのを確かめた樹延ジュエンは、床に額をつけ拝礼した。伏せた顔に、涙が止まらない。

 背後に立つ壮年の男が寝台へ近づき、皇子の頬にそっと手をやった。


「苦しまずに逝かれたか」

「深い昏睡状態から毒を含ませましたので、恐らく」

「そうか。感謝する」

 蒙恬もうてんは眠る皇子を慈愛に満ちた目で見つめ、次に樹延へと向けた。


「顔を上げよ」

 樹延は伏せたまま、固められたように動けなかった。


 扶蘇が自決したのは、他ならぬ父親の命令だからだ。黄門が持参した璽書じしょには、ある事ない事が挙げられ、扶蘇をなじる言葉が連ねられていた。


 五年前に扶蘇は、異民族の匈奴きょうどとの前陣本拠である雁門がんもん郡へやって来た。始皇帝の後継と目される皇子が、危険な北の前陣へ行かされたのは、蒙恬という大将軍がいたからだ。始皇帝の信任厚い将軍へ預けられたと言っていい。


 実際、扶蘇が学ぶべきことは多かった。三十万の兵を率いた蒙恬から、流通確保の手法や指揮命令系統の統率、多数を相手に勝つための兵法。加えて長城建築という大規模土木工事の監理も行い、何もかもが扶蘇にとって、皇帝になるための場数になるはずだった。


 にもかかわらず璽書には、五年間何の功績も上げていないことを非難し、次期皇帝には弟の胡亥こがいを指名するとある。


 これはおかしい。開口一番、蒙恬もうてんは口にした。


 始皇帝は官僚を血筋だけで決めず、能力のある者なら生まれを問わずに登用してきた。その父が、息子の才覚を分からぬはずがないのだ。だから璽書は偽作と疑い、蒙恬は再度みことのりを請い真偽を確かめるよう進言したが、扶蘇の決意は変わらなかった。


 皇子が皇帝の勅令を疑り逆らっては他に示しがつかぬと、樹延と蒙恬に言って聞かせたのだ。

 ——ご立派でした。私もすぐに参ります。


 蒙恬に支えられて、樹延は上体を起こす。匕首あいくちを手にすると、蒙恬が畳んだ生成りの布を差し出してきた。

「涙を拭え」

 両手で拝借すると、素早く匕首を取り上げられる。


「閣下、何を」

「お前の自決は勅命に無い」

「毒を調合したのは私です」

「せめてもの思い遣りゆえであろう。お前に罪はない」

「いいえ」

 蒙恬の手にある匕首こそ、自決の勅命と共に扶蘇へ下賜された刃だった。


「どうか私を死なせてください」

「ならぬ。お前はあの勅命が本当に皇帝陛下の宸意しんいと思うのか。獅子の子落としとは言うが、我らの大王は血を分けた御子息に自ら死をたまわる御方なのか。答えよ」

 そう聞かれれば首を横に振るしかない。樹延とてもちろん、疑わぬではなかった。


扶蘇ふそ殿下は、皇帝陛下の施策に異を唱えられる唯一の御方でした。優れたご見識は陛下も認められていたはずです」

「お前の教育の賜物たまものだ」

「滅相もないことです。私など殿下の足元にも及びません」

「璽書を、悪意をもって偽作した者がいる」


 それはつまり、始皇帝が崩御したことを示す。死を伏せたまま、誰かが己の野心のために才気ある扶蘇を死に追いやった。始皇帝の勅命という、不可避の手段で。

「北へ行け、樹延」

 奥歯を嚙みしめた樹延の肩に、蒙恬もうてんの分厚い手が乗せられる。


「毒を調合し殿下に含ませた。それを罪と申すなら、豊海バイカルへの流刑を命ずる」

「何を仰いますか。私はここで」


「時間がない。いつまでも黄門を待たせるわけにいかん。俺が時間を稼ぐ。今すぐに発つのだ」

 蒙恬の目には、否を言わせぬ気迫が溢れている。幾度も死地を越えてきた武人の圧に、戦に出たことすらない樹延が敵うはずがない。


 支度を整える間もなく、二名の兵に伴われ密かに城郭を出奔する。

 北は、匈奴をはじめとする異民族が暮らす地だ。なぜ北なのか。豊海バイカルに一体何があるというのか。


 秦の貴族の家に生まれ育った樹延にとって、それは過酷な旅だった。まず、追手を撒くため兵の一人が犠牲になった。

 それから平原が砂漠になり、昼の酷暑と夜の極寒が交互に訪れる。大神の咆哮のような砂嵐に何度も見舞われ、耳の中まで砂だらけになりながら岩陰で耐えた。兵士は蒙恬と共に何度か北へ往復したことがあるらしく、オアシスの場所を知っていた。


 砂漠を抜けると草原になる。遊牧民の移動式住居や羊の群れを見かけた時は、人が暮らしているというだけでどれほど安堵したか。こちらに敵意が無かったからか、遊牧民は親切に一宿一飯を提供してくれた。


 山に差し掛かったところで山賊に襲われ、兵は獅子奮迅の戦いぶりで絶命してしまう。頼りになる男だった。


 一人逃げのびた樹延は、星の位置を頼りに北の深い森へと進んでいく。

 城郭を出て三十日と、一人になってから十五日経っている。遊牧民にもらった干肉は食べ尽くし、この四日間は水だけしか口にしていない。

 何も考えられず馬を曳き、ただ足を前に動かしていると、耳慣れぬ音がする。何かが近づいてくる。


 働かぬ頭でなんとなく獣かと思ったが、視界に現れたのは人だった。一本にまとめた蜜色の髪をたなびかせ、走る女人。背後には剣を手にした男が迫り、追われているようだ。女の速さには目を見はるものがあり、男は背負った短弓を構え、女の背に向け放った。


 パシュンと弦の音が二回響き、女が前のめりに転ぶ。何かが樹延の体中でざわめいた。


 抜き身の刃を手にした男が、女へと距離を詰める。同時に樹延も背負った剣を抜いていた。男は樹延に気付いていない。

 女は体を起こしたが、負傷していて思うように動けず、じりじり下がるだけだ。


 男が剣を振り上げる。その背中へ樹延も剣を振りかぶった。自分が獣のような声を上げていると気付いたのは、男が振り返ったからだ。


 両手で上から下へ袈裟に斬り下ろす。肩から入り胸の下まで来た辺りで止まってしまい、それ以上振り抜けない。体から剣が生えた格好で男は二、三歩ふらつき、仰向けに倒れた。

 生まれて初めて人を斬った。頭も体も限界のはずの己の体に何が起きたのか、よく分からない。


 女人と目が合うと、何か話しかけられた気がする。だが目の前がチカチカして何も聞こえず、やがて膝から力が抜け落ちて、真っ暗になった。

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