「女性」として、エッセイという名の毒を吐いてみる

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「女性」として、エッセイという名の毒を吐いてみる

 私達「女性」という生き物には、二十代から三十代という、一定の時期に繰り返される決まった問い掛けがある。


二十代中期から後期の第一次結婚ラッシュにて。

「彼氏は?」

次にこの栄光を勝ち取るのは誰か。もしくは、先に抜け駆けするのは誰なのか。という腹の探り合いの始まりである。

三十代前期。

「結婚は(いつしたの)?」

ここで、既婚者には共感共有の話し合い。結婚予備軍には、既婚の先輩としてのアドバイス。そして、未婚・予定無しの者には、晩婚化の時代という優しいフォローが入る。

三十代後期。

「子供は?」

もはや既婚の有無すら問わない。

この時点における未婚という回答者には、正味0.1秒の沈黙と、結婚=幸せでは無い、という大層優しいフォローが入る。


昔の様に「結婚適齢期」という言葉は聞かなくなった。お見合いや仲人という当たり前にあった風土もない。「行かず後家」等という言葉はもはや死語だ。

にもかかわらず、未だ女性の人生の一定時期にこの様な問い掛けが発生し続けるのは何故なのか。しかも、この問い掛けが異性から発せられるモラハラ・セクハラ等と表現される言葉ではなく、大抵が同じ女性から女性へ明日の天気の話と同じ位、気軽に発せられる話題なのは如何に。


これは、女性特有のコミュニティーの作り方が一因かと思われる。社会に出ると、男性は比較的「仕事」という繋がりのみでも話題提供やコミュニティーを作成しやすいのに対し、女性は共通の話題を持つ者同士での会話が成立しやすく、そこで一種のコミュニティーが出来上がりやすい。「ママ友」等が良い例だろう。一番共感しやすい共通の話題を引き出すには的確な質問なのである。

(ちなみに余談だが、私は例えどんなに仲の良い友人相手でも、ママ友のコミュニティーには入れない。なぜなら、私が「ママ」ではないからである。)


前述の問いを投げかける人達にとって、相手を傷つける意図はもちろんない。そして同時に、問い掛けられた側にも傷つけられている認識はない。結婚や孫を急かす親にも、嫌気がさしこそすれ、親子の縁を切ってまで退けようとする者はなかなかいない。

なぜなら、問い掛ける側にとっては「年齢にそぐった問い」であり、問われる側にとっても、その年齢であれば「問われても仕方のない問い」であるという諦めにも似た認識があるからである。

如何に女性の人生という辞書に「結婚」や「出産」の記載がある事が共通認識であるかが分かる。


だが、もうすぐ四十を迎える私。

最近やっとこの共通認識に疑問を持ち、今まで確実にHPを削られてきていた事にようやく気付いた。だって、傷付かない訳がないのだ。誰にとっても「当たり前」な事など決してないのに、それを前提に押しつけられた疑問なのだから。


政治家や世間が結婚しろ・子供を産み育てろと言う気持ちもわからないではない。次の世代が増えなければ、今後より高齢化社会となり、経済が回らなくなる事は目に見えている。まして、女性だからといっていつまでも子供が産める訳でもない。出産に適した時期というものもあると思う。だが、様々な理由で妊娠・出産が難しい女性がいる事も事実なのである。決して誰にとっても「当たり前」の話題ではないのだ。


どうかこれ以上、適齢期や「女性の年齢=結婚・出産」という認識を植え付けるのをやめて欲しい。自覚がある・ないに関わらず、確実に傷付く者はいるのだから。


無意識に他人のHPを削る事の無いよう。

明日の天気を話すが如く、気軽で当たり前の話題となる事の無いよう。

多様性を認める社会を目指すと言うのなら、真っ先に取り組むべき問題では無いだろうか。

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