もとこいびとのいえ
きみはこの道を知っている。間も無く、右に曲がって、その突き当たりに、きみがかつて恋をしていた人の家がある。何度も、何度も通い詰めたこの道を忘れるには、きっとあと二十年は必要だろう。きみたちが恋人だった期間は半年に満たないが、その密度は雷雨を降らす積乱雲を思わせるほどの重厚さがあった。
きみは二度と来ないと思っていたこの道に至って、感傷的に目を細めた。古傷が痛む。きみたちの恋を終わらせたのはきみだ。きみが新しい恋を見つけてしまったから、その恋は、勝手に古い恋になってしまった。ショック療法のように、古い恋は新しい恋に打ち消された。すると、不思議なことが起きた。きみの心は、まるで最初から彼を嫌っていたかのように振る舞った。愛おしく感じていたはずの、彼の授業中の居眠りを、ある日を境に許せなくなったのだ。
今まで忘れていたわけじゃない。ただきみにとって、それは重要なことではなくなったというだけの話だ。
けれど、今、この瞬間は別だ。
ホラー映画にうなされた、興奮冷め止まぬ深夜二時。恋を失ってほんの八時間半の今。深夜徘徊という非日常にあって、きみの普段押さえていた非常識な部分が顔を出す。
きみは彼の家を目指した。帰るべき、きみ自身の家は反対方向だ。復縁を考えているわけじゃない。スレンダーマンから守ってほしいわけじゃない。ただ、きみは、彼の家をもう一度だけ見たくなった。
彼の家の表札には、きみたちが付き合っていた一年生の夏頃までと変わらず、『
水植家は、伊良皆家よりもひと回りほど小さな家だった。そして、きみの記憶上の水植家よりも大きな家だった。
彼の家は黒を基調とした細長い二階建ての家で、隣の数軒に似たような家が建つ、建売住宅だ。玄関前には一台分の駐車場があるが、肝心の車はなく、前に感じた窮屈さは無くなっていた。二階部分には、僅かに出っぱったベランダがあり、あそこからつまらない景色を二人で眺めていたことを思い出す。
住宅街を見渡したところで何も面白いことはないし、何より二階からでは景色も何もあったもんじゃない。きみは当時の不満を思い出して笑った。この景色も、狭い部屋も、壁の薄さも、思い返せば不満だらけで、けれどあの日々は輝いていた。
「いったいこんな時間に何を笑っているんだ」と、スレンダーマンが怒ったふうにいうと、それに同調するように、きみのドッペルゲンガーが、「まったくだ」と呟いた。
きみは彼らの方を見ると、「深夜には昔話をするもんだろ?」
「知らないねぇ、私の常識じゃあない」
スレンダーマンが首を振って答える。けれどきみのドッペルゲンガーは、きみの思考を理解できるようで、「気持ちはわかる」というと、今度は勤めて冷静に、「しかし、きみは常識を愛していただろう?」
その言葉がきみを惑わせる。常識という観点で、きみは自分を正そうとする。すると至らぬ点はいくつも見つかった。
深夜徘徊も、他人の家の庭を覗き見るのも、元カレのストーカーも、スレンダーマンと友達なのも、ドッペルゲンガーと暮らしているのも、非常識極まりない。きみはドッペルゲンガーの適当な言葉に腹を立てる。
「いつ、私が家を抜け出したことに気づいたの?」
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