ともだちのいえ

 パタパタとサンダルを鳴らしているきみは、上下薄ピンクのパジャマに、上からカーディガンを羽織っていて、あまり人から見られたくない格好だな、と思っている。そうでなくとも、高校生が深夜二時に一人で出歩いているところを見られたらマズイ。それは授業中の居眠り以上の非常識だ。しかし深夜ゆえの興奮が、きみの歩みを先へと進めた。


 左手にあるのは友達の伊良皆いらみなさんの家だ。レンガ調のベージュの壁で、敷地を生垣で囲われた、コオロギが鳴けるほど広い庭のある二階建ての一軒家。駐車場もあって、車の後方には色々な物が無防備にも外に晒されている。

 友達で同級生の彼女は、父親が沖縄出身で、「はいさーい!」とか「にふぇーでーびる!」なんてクラスメイトに揶揄からかわれている様子をよく見かける。それに困ったような笑顔でおうむ返しをする彼女の様子はとても可愛らしく、一部の男子から人気を博していた。


 その実、父親と彼女の仲は芳しくなく、本心ではそのいじりを嫌がっていると、きみは知っている。


 詳しい事情は知る由もないが、どうやら、ただの思春期がゆえの父親嫌いではないようで、それは彼女の口から、「法律が無かったら殺してる」という愚痴すら溢れるほどだ。


 少し背伸びをして、生垣の上から庭を覗く。僅かな罪悪感は闇に飲まれて消え去った。そこにはやや手入れの行き届いていない犬小屋があり、中には犬もリードもない。そういえば、ときみの頭に過ったのは、彼女がきみに本心を打ち明けた日のことで、その日を境に、彼女が「愛してやまない」とまで言っていた、飼い犬の話題を口にすることはなくなっていた。


「飼い犬は、──に殺された?」


 このおしゃれなベージュの家の内側には、暗闇が渦巻いている。窓から漏れる光はなく、実際に暗闇ではあるのだけれど、それ以上に深い、仄暗ほのぐらい海の底から足を掴まれるような、不愉快な暗闇だ。「殺したい」なんて感情を持ったことすらないきみは、が暮らす家にそんな感想を抱いた。

 その『気遣い』も、何が彼女をそんな性格にさせたのだろう。きみの考えうる限りの最悪のシナリオは、気遣いを普段から──学校ではなく、もっと身近で、もっと時間的な幅の大きい場所で──強制されていた、というものだ。あるいは、高校生になるずっと前から。

 きみは段々と気分が悪くなり、伊良皆家を後にした。それが真実かもわからないのに。

 完全に去ってしまう前に、横目でその存在をもう一度確認する。


 レンガ調のベージュの壁。生垣。犬小屋。カーテン。トヨタ社製の車。広い庭。


 人。


 平たい屋根。カゴ付きの自転車。大型バイク。子供用のホッピング。シャベル。ドラム缶。


 人?


 きみは立ち止まって、すぐに振り返る。

 人なんてどこにも居ない。完全な思い過ごしだ。と、きみは信じたくて、きちんと確かめもせずに適当な曲がり角を曲がった。心臓がうるさい。秋の虫が息を殺す。心臓の音だけが鼓膜に響く。


 適当に曲がった後は、さらに適当に曲がった。とにかくあの家から遠ざかりつつ、きみは人影の確かな形を思い出そうとしかめっ面を披露する。

 伊良皆さんだったのだろうか? きみの知っている彼女のシルエットは、あの人影とは重ならない。では、父親だったのだろうか? 彼女から聞いていた父親の体型は、中肉中背でほんの少しの肥満であるが、それもどうにも当てはまらない。

きみの見た人は、ずっと背が高く、それも手と足の長さが異様だった。まるでスレンダーマンのような人影。

 息が荒くなり、次第に正確な記憶の想起が難しくなる。無意識のうちに走っていたらしい。きみは段々と、人を見たのか、人影を見たのかすらも判別がつかなくなり、そのうち立ち止まると、あれは見間違いだったと結論付けた。その結論が正しくなくてはならないから、という到底認められるはずもない理屈で、きみは感情を無理に押さえつける。


 新たな傷は、以前のそれを覆うことなく、ただ押し広げたようだった。

 滲んで、潰れて、痛々しい。ぐちゅぐちゅとした、赤い傷。


 きみは深夜徘徊にすっかり懲りて、大人しく帰ることを決めた。適当に逃げ回ったので、ここがどこだか不安になって辺りを見渡すと、どうにか帰り道が分かりそうな場所だった。

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