汚物
普遍物人
第1話
「どう思う。」
そう言って、絵の具のついたエプロンを着た少年が顔に付いた絵の具を拭いながら唸る。
「素晴らしいと思いますよ。」
私の目に映るのは美しい1人の婦人の絵画だ。青年の完全な空想で描かれた婦人が描かれている。青い空、一本の木が写り込む窓を背景にして、1人の婦人がその窓から差し込む光の中で見窄らしい格好をしながら、何かを編んでいたのだろう。ただ、絵画の婦人はその手を止めこちらに目を向けて微笑んでいる。綿密な色使い、透き通るような婦人の肌、緩やかな笑み、まるでそこにその空間が出来上がったかのように写実的なのに、どこか儚い。そんな絵が彼の売りであり、真似しようにも仕切れない、彼を有名にさせた技法でもあった。世界中には沢山の愛好家がいる。何を隠そう、そのうちの1人が私であり、訳あって彼の生活を支えているのだ。丁度今年で3年目となる。
「違うんだよね。僕が描きたいのは。」
彼はパレットを無造作において、背もたれのない椅子に腰を下ろす。
「そうかしら。私は美しいと思う。」
「今まで通り、な。」
彼は皮肉めいた口調でそう言い、ため息をついて粘り気のある目線で絵画を見る。
「今まで通りでは、いけないの。」
「納得がいかないんだ。」
彼は片方の手で頭を掻き、片方の手を腰に当てながら背中を反らす。
「今まで通り、普通に描いたんだよ。なんも考えずに、普通に。でも、なんだかな。」
「そうですか。」
「完璧すぎる。」
そう彼は呟いて椅子から立ち上がった。その様子を見て、私は疲れた彼のために少しばかりの軽食を作ろうと台所へと向かおうとしたその時に、私は彼に呼び止められる。
「いや、ちょっと待って。」
はい、と立ち止まると、彼は絵の具のついた両手で私の顔を包み込み、そのまま私の頬を上げたり下げたりし始めた。この天才画家である少年の奇行は今に始まった事ではない。しかし私の意志に関係なく、心臓の拍数が跳ね上がり、心なしか顔も熱くなっていく。どうしようもなく、ただ私は彼の顔を見ていた。彼の人形のような碧眼、頼りなく細い手、透き通るような色白の肌。彼が彼の絵の中に入っても、きっと彼は馴染むだろうと思う。ただ少年にとってそれは関係のないことで、そのまま頬を撫でたり、突いたりしながら私の顔を吟味していた。
数分そうした後、彼は突然、目を見開いて口角を上げた。
「これだ。」
力強く叫んだ後、彼は再び椅子に座り、パレットを手に取って絵の具を出す。そして脇目も振らず絵に没頭し始めた。オレンジと黒を混ぜて茶色を作ったり、赤と白と黄色を混ぜたりしながら、彼は絵に手を加えていく。その手は荒々しく、いつもの繊細な色使いはどこへ行ったのやら、美しい婦人は見る見るうちに汚らしくなっていく。いつもの彼とは大違いで、見たこともない、その彼の形相と様子を私はただ呆然と見ているしかなかった。
3時間ほど経った時、パタン、と急に力無く画材を床に落とし、彼は絵の両端を力強く掴んだ。
「出来た。」
私はその絵を見て唖然とした。かつて美しかった婦人の肌には吹き出物や痣が多く点在し、その白かった肌とは想像もつかないほど汚い。空間は儚く美しいのに、中央にいるその婦人が妙に浮いていて違和感を感じる。
「どうだい。」
彼の声に意識を戻される。前の方が良かった。そう言おうと彼の顔を見た。
しかし、そんなことは言えなかった。
絵を見つめたままの彼の目は、世の全ての光を反射せんとするほど輝き、白くて頼りない肌は紅潮し、か弱い手には力が込められ、その口角は満足げに上がっていた。
開けかけた口をそのまま閉じる。そして私はもう一度彼の絵と彼を見比べる。きっと彼のこの絵は今の彼が中に入っても、違和感はないだろう。
「いいと思います。」
彼の絵はあの日を境に売れなくなった。
汚物 普遍物人 @huhenmonohito
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