第19話 【事件現場】芽吹く災いの種



 ……なんのことはない。このご時世いつどこででも起こりうる、不幸な冤罪事件……そのひとつだった。




 彼はこの浪越なみこし銀行に長らく勤めていた、遣り手の営業担当だった。


 一般的に『難関』に分類される四年制大学を卒業し、新卒でこの浪越銀行へ就職。今年三十五を迎えるまで、順調に勤勉に勤め上げてきた。

 趣味はドライブと車中泊、そしてスキー。休暇を利用した一人スキー旅行の最中、とある女性と出会い意気投合。一年ほどお付き合いした末、三年ほど前にめでたくゴールイン。

 念願のマイホームを手に入れ、幸運なことに娘さんも授かり、幸せな人生を歩んでいたそうだ。




 …………ほんの数ヵ月前までは。




 銀行員であれば、当然身なりにも気を配っているだろう。腕時計や靴やスーツなんかは、きっといいものを身に付けていたのだろう。


 高級そうな品々に身を包んだ、優しそうな風体の既婚男性。怖いもの知らずで常識知らずなクセに悪知恵の働く子らにとっては……さぞいい金蔓カネヅルに映ったのだろう。



 出張先の地下鉄で運悪く目を付けられ、恥知らずな悪童に痴漢冤罪を吹っ掛けられ、抗議の声を上げる間も無く男に殴られ、地下鉄車輌の冷たい床に抑え付けられ、財布やスマホや機密書類の詰まった営業鞄を取り上げられた。

 そのまま次の駅に着くまで数分間、背中の上にのし掛かられたまま。彼の訴えは誰にも聞き届けられず、全く身に覚えの無い罵詈雑言を浴びせられ続けた。


 駅に着くなり引き摺られるように事務所へと連行され、鞄はずっと『犯行の証拠品だから』と取り上げられたまま。

 駆けつけた警備員によって、事情聴取と言う名の吊し上げが行われる。さめざめと泣いてみせる『被害者』とその彼氏は、生々しい犯行の様子を異様なほど詳細に語ってみせ、彼の自前のスマートフォンより『彼が撮ったにしては明らかにアングルがおかしい盗撮写真のようなもの』が発見されたことで…………彼の破滅が確定した。



 そこからは……ひどいと言うしかなかった。


 『被害者』どもは『示談にしてあげるから』と、決して安くない金額を彼に吹っ掛けた。

 スマホも鞄も、客先の個人情報も社内機密も人質に取られた彼は、可能な限りの抵抗を試みたが……長時間の拘束の末、その要求を呑むしかなかった。


 ずっと鞄とスマホを取り上げられていた彼は、職場へも家族へも連絡出来ず、結果として客先との約束アポを無断ですっぽかした形となってしまった。

 職場には決して少なくない迷惑と明らかに大きな損失が生じた上、事実と異なる『痴漢者』のレッテルを貼られた彼は……以前の『次期有望株』との評価から一転、支店長を始めとする職場の全員から白い目で見られるようになった。


 その後名指しで呼び出され、自己都合による退職を迫られ、事実上のクビ宣告を受け……長年尽くしてきた職場から、一方的にあっさりと追放された。



 職を失い、更に性犯罪者の烙印を押された彼を見限り、妻は離婚届を残し娘と共に出ていった。

 離婚は妻の精神的苦痛の原因を作った彼の責任とされ、貯金のほとんど全ては慰謝料および養育費として持っていかれた。



 たった数ヵ月で、仕事も、愛する家族も、全ての幸せを失った彼。

 ただただ不幸な彼に残されたものといえば……一人っきりで暮らすには広すぎる二階建ての戸建て住宅と、『性欲を抑えきれずに職と家族を失った男』という汚名と、今の彼には到底返済しきれない月々のローン支払いだけだった。


 ……以上が、改めて詳しく聞いた彼の身の上話である。



 いくらなんでも、悲惨すぎる。

 そもそもが、発端はただの冤罪。彼には咎など一切在りはしなのだ。

 こんなの……絶望するな、ってほうが無理な話だろう。





「……本当に…………ひどい話ですね」


「…………信じて……くれる、のか……?」


「信じますよ。……あなたの『恨み』は本物ですもん」



 カウンターの裏側に二人ならんで体育座りで座り込み、約束通りに彼の話を聞く。

 おれの血を見て頭を冷やしてくれたのか、意外なほど彼は理性的に犯行の動機を……ここ最近彼の身の上に起こった転落劇を、淡々と語ってくれた。


 支店長を痛め付けているときの慟哭からなんとなく想像はついていたが、それよりも遥かにエグい内容だった。

 不幸に不幸が重なった結果なのかもしれないが……順風満帆で幸せだった日々から絶望のドン底へ、一気に叩き落とされたようなものだ。……そりゃ復讐を考えたくもなるわな。

 あの悪童共とて、さすがにここまで人一人の人生を破壊するとは思っていなかったのだろう。若さとは怖いもの知らずで、ときに無知で、そして残酷だ。




「……ところで……君はさっきから……何をしてるんだ?」


「演出ってやつです。時間稼ぎというか、アリバイ工作というか」


「…………そうか」



 実は先程から――彼の話をちゃんと聞きながら――意識の一部を分割し、先行定型入力ショートカット登録されている魔法を何度かひっそりと発現させていたのだ。彼の話を邪魔しないように、呪文詠唱ではなく手指の呪印で。

 それなりに危機感を煽る騒音と地響きを演出していたので、外の面々もしばらくは近付いて来ないだろう。


 ……なので、その間にコッチを片付けなきゃならない。




「あなたの恨みを……『全部理解できる』なんて傲慢なことは、とても言えません。わたしは所詮他人なので、どれだけ『知ろう』としても……あなたの恨みの全てを理解することは、出来ません。……思考を繋ぐわけにも行かないですし」


「はは…………良かったよ。……ここで『気持ちは解るけどめてください』『復讐は何も生みません』なんて言われたら…………私は、君の首を絞めていたかもしれない」


「…………やっぱり、あなたの『恨み』は収まりませんか? ……ですか?」


「ああ。それこそが……ことが…………だ」


「……………………そっ、か」



 瞳の奥底にどんよりとした闇を湛え、彼が再び理性を失おうとしている。

 彼の願いを叶えるために取り憑いた『種』……募りに募った彼の恨みを糧にして発芽した『苗』が、不気味に蠕動しながら着実に育っていく。


 根を張られている彼自身に気付かれること無く――いや、『魔力』に類するものを知覚できない人間の誰にも、一切気取られること無く――この世ならざる漆黒の『苗』は、ゆっくりと成長を続けていく。



 『それ』を放っておくと何が起こるのか。『それ』は何のために人間に根を張り、成長を試みるのか。

 実際そんなこと解るわけ無いが……この身体アバターに籠められた設定呪いが――平和を愛し、人々の平穏を願う優しい心が――と、最上級の警鐘を鳴らす。


 何が起こってしまったのか。何が起こっているのか。何が起ころうとしているのか。残念ながら、何一つとして明瞭な答えは持ち合わせていないが……あの『苗』を放置すると大変なことになるということを、この身体アバターの本能が告げている。



 ……見過ごすことは、出来ない。


 …………だから、わたしは。







「えいっ」


「ギャアアアアアアアアアアアアアや゛め゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!?」


「えっ? ウソ、まじ? ちよっ、やば、取れちゃった」


「ぐヌウ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!? な゛んっ………グぇ゛ッ、…………グギ、ャア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」


「待って、ごめん。取れちゃ……今のナシ……えぇ、こんな簡単に」


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!! ごぽっ、ゴぎャア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!?」



 どろりとした怨恨を湛えていた彼の延髄から伸びていた、不気味な黒さを纏う不可視の『苗』を引っ付かんで引っ張ると……根っこの末端が千切れるような『ぶちぶち』とした感触を残し、あっさりと引っこ抜けてしまった。



 突如ぐるんと白目を剥き、海老反りになりながらビクンビクンと痙攣し始めた彼。

 右手の上には、みるみるうちに萎れて小さくなっていく黒い『苗』だったもの。

 目の前には…………ちょっとヤバそうなモノが乗り移ってしまったような挙動を取る、纏っていた邪気が消え失せた彼の姿。


 あまりにも予想外、そしてかなり衝撃的な事態に……いかに高性能なおれの身体とて、まるで理解が追い付かなかった。




 呆然とすること、しばし。


 いつしか彼の絶叫は止み、今や彼は白目を剥いたまま涎を垂らし、時折ぴくり、ぴくりと痙攣するばかりとなり――



 見た感じ明らかにヤバそうな風体で、完全に気絶していた。



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