第8話 【安全地帯】おれおれ!おれだって!



 今さらだが……本当に今さらだが、原付をかっ飛ばしてきたのは少々まずかったかもしれない。

 他に選択肢が浮かばなかったとはいえ、時刻はそろそろ深夜一時になろうとしている。こんな真夜中に住宅地にエンジン音を響かせるのは……根が小市民であるおれは、少々いたたまれない気持ちになってしまう。


 しかし、使ってしまったものは仕方ない。何度か停めたことのある駐輪場に原付を停め、コンビニで買った飲料ペットボトルの袋を提げてエントランスを進む。

 一・二階部分に都市銀行の支店が入ったこのマンションのエントランス近辺は、深夜でも安心できる光量で満たされていた。




(つ、い、た、よ……っと)



 REINメッセージツールに短文を入力し、すぐに既読がついたことを確認。自動ドアの隣の文字盤に部屋番号を入力して『呼出』を押す。



 ――――ぴーんぽーん。


『ういーっすお疲れーっす! 開けまーす!』


「………………ぁ」


『どぞぉー! 玄関カギ開けとくんでぇー!』



 後輩にして同志である烏森かすもりの声とともに、すぐにエントランスの自動ドアが開かれる。

 幸いというかなんというか、この呼出しインターホンにはカメラ機能がついていない。そのため明らかに背格好のおかしい今のおれでも、REINメッセージツールでの到着報告との合わせ技で迎え入れてもらうことが出来た。……運が良かった。



 おれの通過を感知して、背後で自動ドアが再び道を閉ざす。空気の流れさえも止まり、静まり返った真夜中のエントランスにはおれ以外に動くものが無い。

 迎え入れてもらった安心感が浮かび上がると同時……彼との対面が刻一刻と迫ってくる事実に、次第に恐ろしさも浮かんでくる。



 おれだということを信じてもらえなかったらどうしよう。


 おれの身に起こったことを信じてもらえなかったらどうしよう。


 相談に乗ってもらえなかったらどうしよう。


 頭のおかしい奴だと取り合ってもらえなかったらどうしよう。




 ……追い出されたら、どうしよう。




 答えの出ない問いに堂々巡りを繰り返しながら……おれの内心に反して明るい廊下を、とぼとぼと進んでいく。

 ペットボトル二本を入れたビニール袋が柔い手の指に食い込み、じんじんと痛み始める。何度か持ち直しながら重い足を懸命に運ぶ。


 一歩一歩階段を上がり、解決しない不安が延々と頭の中を巡回し続け、疲労と心労とが積み重なる中……いつのまにか辿り着いていた終着地点。

 目の前には一枚の玄関ドアと、『三〇五』と書かれた表札プレート。玄関脇の換気ダクトからは換気扇からの排気が吐き出され、甘辛く香ばしい香りが辺りに漂っている。



(……大丈夫。……大丈夫。……きっと、大丈夫)



 何回か深く深く深呼吸し、おいしそうな香りを腹腔いっぱいに吸い込み、心を落ち着ける。

 大丈夫だ。いつも通り気楽に押し入り、軽く『おいーっす』とか挨拶するだけだ。いつも通りやればいい。何も恐れることは無いし、何も恥じる必要は無い。……よし。



 床に置いてあったビニール袋を右手で持ち上げ、左手を玄関ドアへ伸ばしドアノブに手を掛ける。エントランスのインターホンで言っていたように鍵は開いていたらしく、大した抵抗もなくスムーズに……いともあっさりと扉は開く。



 烏森の家には、何度か遊びに訪ねたことがある。一階と二階部分に都市銀行の支店が収まった、鉄筋コンクリート造マンション七階建ての三階、2LDKバストイレ別の築浅物件。

 入居テナントの都合上なのか地域の治安も良く、対面式キッチンと広めのリビングに独立洋間が二部屋と……独り暮らしで使うとあっては、とにかく非常に羨ましい物件だ。

 玄関ドアから入ったらまず左手に折れ、そのすぐ正面には水回りスペースの扉。その扉を開かずに右を向くともう一枚ドアがあり、更にそのドアの向こうがわ右手にキッチンスペースがあり……恐らく彼はそこに居るのだろう、フライパンで何かを炒める美味しそうな音と香りが漂ってくる。



(……あっ、靴脱がなきゃ)



 よそ様のお家に土足で上がり込むなど、現代日本では有り得ない。履き慣れてもいなければ当然脱ぎ慣れてもいない革長靴レザーブーツを何とか脱ぎ捨て、ちいさな足でフローリングに降り立つ。火照った足裏にひんやりと冷たさを感じ、その刺激のおかげで幾らか気が引き締まる。

 大丈夫。やることは単純だ。廊下を進んで扉を開け、キッチンに居る彼に『よっ、お疲れ。いやーまいったよ何かいきなりこんなんなっちゃってさーハハハ』と自嘲すれば良いだけだ。


 何度目かわからぬ気合いを入れ直し、一歩一歩足を進めていく。

 ドアに手を掛け、ノブを捻る。ゆっくりと引けばドアは滑らかに開き……すぐそこの角の向こう側には、てきぱきと動きまわる男の気配を感じる。



 いつのまにか唾液は干上がり、喉はからからだ。ごくりと生唾を呑み込み、無意識に足音を忍ばせながら歩みを進めていく。


 後ろ手にドアを閉めるも慣れない身体で手元が狂い、ぱたんと小さな――しかし想定していたよりは大きな――想定外の音が、2LDKに響き渡る。



 その音は当然、すぐそこで腕を振るっている彼にも届き。

 来客を察知した彼が振り向くのも……まぁ、当然のことで。



「あっ、先輩お疲れーっす。もうすぐ……出来…………ま…………」



 おれの姿を見た彼が、こういう反応を返すだろうということも…………まぁ、当然なわけで。




「…………」


「……お、おっす」


「………………」



 左手にじゅうじゅうと音を立てるフライパンと、右手に菜箸を握ったまま、ぽかんという擬音が非常によく合う表情で……この家の主は完全に硬直している。

 こんな夜更けの闖入者に対し、彼は『誰だ』などと口にすることは無い。


 今のおれは不似合いな男物のコートを着込んだまま、しかしながらだぼだぼのフードを脱ぎ、特徴的な髪と耳と頬の紋様をさらけ出している。

 突如現れた闖入者が何者なのか。現代日本において有り得ない風体の少女が何者なのかは、彼だって充分よく知っている。

 知ってるが……よく知っているからこそ、ありえないことだと解るからこそ……だからこそこうして、思考が追い付かずに硬直しているのであろう。



「…………」


「…………えっと……」


「………………」


「……………………


「!? え……は、ハイッ!?」



 だからこそおれは、いつも呼んでる呼び方で彼の名を呼び。




「フライパン。……コゲるぞ」


「……………………あっ!?」




 悲劇を未然に防ぐことに、無事成功したのだった。





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