part.3 マーサ

 雪の積もったアパルトマンの階段を降りながら、マーサは僕にほほえみかけた。


「待たせたわね。なかなかおじいちゃんの日記が見つからなくて」


 冷水に浸かったような寒さのなかにいたが、我慢強い九州男児である僕は「そんなに待っていない」と見栄を張った。


「それじゃあ、話を続けるわね。わたしは生まれも育ちもここ。でも親元を離れてひとりで暮らしている。好きな音楽はそうねえ、たくさんあるけど、一番はやっぱりザ・スミスかしら。ひいきのサッカーチームはマンチェスター・シティ。ユナイテッドの方じゃないから間違えないでね」


 バーから来る道すがら、マーサはずっと自分の話をしていた。『見知らぬ男女が夜一緒にいるべきではない』と言いふくめると、『じゃあ知り合いましょう』と言ってはじめたのだ。僕はなし崩し的に彼女を部屋に招くことになった。ここまで歩きながら彼女がイギリスのゴス系のブティックで働いていて、僕と同じ二十歳であることが分かった。


 信号にさしかかる。横に並んで、マーサは白い息を吐くと、僕のオーバーコートの肩を指で突いてきた。


「今度はあなたのことを聞かせなさいよ。それじゃないと知り合ったことにならないでしょ。どんな町から来たの? 好きなものはなに?」


「僕は日本人の留学生だよ。北九州の生まれで、いまは仙台市の大学に籍を置いている。専攻は文学、ここには一年間の留学で来たんだ」


「ふうん。文学ね。詩だったら好きよ。ブレイクとかエリオットとか」


「僕はシェイクスピアが研究対象だ」


「いいわね。音楽は? 何を聞くの?」


「日本のバンドだよ。YMOって知ってる? テクノミュージックなんだけど。知らないだろうなぁ」


「知らない」


「そうだろう」


「でも興味はあるわ」


 白線の消えかかった横断歩道を渡り、住宅街に入った。家々のドアはクリスマスリースで飾られていた。


「仙台ってどんなところ? おしえてくれる?」


「きれいな町だよ。杜の都って言われて、街に緑が多いんだ。冬はちょっと風が冷たいけれど、住みやすい」


「仙台ね。いつか行ってみたいわ。私、日本に興味があるのよ。浮世絵、着物、寿司。どれも素敵」


「そうなんだ。マーサ、もし君が日本に来たら案内するよ」


「そう? 絶対よ」


 ずいぶんと気安く話していることに気がつく。マーサの不思議と距離をつめるやり方に心を開かされたようだ。僕はマーサが気に入っていた。


 僕の下宿先に着いた。


「いいところじゃない」


「入る時は息を殺してくれよ。女の子を連れ込んじゃいけないことになっているんだ。バレたら追い出されちゃうかも」


「分かった。口を閉じてる」


 そろそろと廊下を渡る。大家の寝室の前を横切る時は一層の注意で歩いた。階段を登り、僕の部屋に入った。


「もう息していいかしら?」


「どうぞ。普通に話していいよ」


「よかった」マーサは僕のベッドに腰を下ろした。「ここに幽霊のリタが現れるわけね。いつ現れるの? どうやったら現れる?」


「深夜0時だった。リタはベッドのふちのところに立っていたんだ」


「素敵」


「いうほど素敵な体験ではなかったよ。ゾッとしたからね」


「素敵よ。ちょうどクリスマスを迎える時刻に幽霊に会えるのね。ねえ、おじいちゃんの日記があるわ。一緒に見ましょうよ」


 僕はマーサの隣に腰かけて、古い日記に注意を向けた。日記は拙劣な筆記体で書かれていて、英語の修練を積んだ僕にも読み取るのは困難だった。


「リタさんについての記述があるのはここよ。『花のような唇。心を洗うまなざし。清らかなこころ。すてきな恋人』。まるで詩人みたいだわ。おじいちゃん」


 マーサは僕に日記帳を手渡した。僕が日記と格闘していると、マーサはバッグからLP版を取り出して、レコードプレイヤーにセットした。ギターの軽快な音楽が鳴り、マーサは手を足を振って動き出す。


「霊時まで退屈ですもの。踊りましょう」


 腰を振って踊るマーサは魅力的だった。見惚れていると、マーサは僕の手を取ってダンスに誘った。ダンスなんてしたことがなかったからマーサの真似をするしかなかった。動きがこなれて来ると楽しくなってきた。マーサは笑った。下で大家が起きてしまうのではないかという心配もどこか遠くに行ってしまった。


 ザ・スミスの「アスク」という曲だとマーサは教えてくれた。ボーカリストが歌う。『シャイでいることは素敵。でもシャイでいると色んなことから逃げてしまうものなんだ』。


 僕たちは自然な流れでキスをした。生まれて初めてのキスだった。それは素敵だった。柔らかく、湿っぽく、恋にあふれていた。


 その直後、天井の照明がバチっという音を立てて消えた。

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