1-9 香菜の前世

 窓の外が白み始めてきた。朝だ。

 数時間後にはスーザンがカナリア姫の部屋へ来てしまう。


「そろそろおいとましなきゃ」


 香菜が言うと、レイヴナーはしっしと追い払うように手を振った。


「僕はこの雑巾小僧の魔法について聞きたいことが山ほどある。女、お前は好きに帰るなりすればいい」


 いちいち失礼な物言いをする魔法使いだ。


 部屋を出ようとした香菜がふと振り返ると、朝の白い光に、レイヴナーの銀髪とタオルの緑のペンダントが鈍く光って交差していた。


 香菜は廊下を小走りで進み、階段をのぼるときはなるべく下を見ないように慎重に歩いた。


 道中でスーザンに会うこともなく、99階の物置にたどり着く。天井には人一人が通れるくらいの小さな穴。昨晩、香菜があけた穴だ。

 適当に木箱を積み上げてよじ登り、穴へ手を伸ばす。腕の力だけで這い上がろうとしたが、今の細い腕ではうまくいかず、木箱を増やしてどうにか穴の上へ出ることができた。


 前の体だったら懸垂くらい余裕だったのに。


 飛行機での事件で死ぬ前、香菜の肩幅は今のこの華奢なカナリア姫の1.5倍、いや2倍はあったと思う。

 生前、香菜は企業の実業団に所属する水泳選手だった。


 幼いころから水が好きだった。

 水は友達だ。たいていの水は、高いところにはないのだから。


 高所恐怖症の香菜にとって、飛び込み台の高さが耐えられるギリギリの高度だ。水泳大会で優勝したときは、表彰台の高さが怖くて登壇を拒否し、周囲からあきれられたこともあった。


 学校の2階へ上がるのすら怖く、毎日勉強もしないで泳いでばかりいた。必然的に、香菜の肩幅は横へ広く、泳ぎは速くなっていった。


 スポーツ推薦で入った大学を卒業して実業団に入った後も、毎日泳いでばかりいた。ただただ水の中が心地よかった。それだけだったのに。


 海外の競泳大会のメンバーに入り、欲が出たのだ。私も世界の舞台で泳いでみたい。メダルをもらってみたいと。

 楽しかった水泳は次第に義務となり、ついに飛行機に乗って世界へ、というときに、運悪くハイジャックに遭ってしまったのだ。


 岩をずりずりと動かして穴をふさぎながら、香菜はため息をついた。


 レイヴナーは水竜の末裔だとか言っていた。ということは海の近くに住んでいたということだろうか。この塔からおりることができたら、いい泳ぎ場でも紹介してもらおう。一生低いところでファンタジー生活を謳歌してやる。


 徹夜明けの頭は鈍く痛み、香菜はしばらく元の位置に戻したベッドで眠った。


 スーザンがやってきたのは、カーテンの隙間からの日差しが強くなったころだった。


「失礼いたしますカナリア姫様。お目覚めですか」


「うう……」


 頭が気持ち悪い。カナリア姫は17歳か18歳くらいの若さだろうから、徹夜も余裕なのかと思っていたが、そうではないようだ。


「気分が悪いのですか」


「そうなの。あんまり眠れなくて」


「まあ、お気の毒に。薬草をお持ちいたしましょう」


 そこは治癒魔法か何かでなんとかするのではないのか。とも思ったが、レイヴナーが言うには、普通の人が使える魔法はせいぜい一つということだった。スーザンが使っている「ルーダ」という魔法は、治癒系の魔法だと思っていたが、違うのだろうか。


 胃まで気持ち悪くなってきた。コルセットを外そう。

 そう思ってベッドから立ち上がったとき、頭がぐるりと反転し、壁際の暖炉に激突した。


 コーン……。

 響くような音がする。


「あいたたた」


「姫様!」


 ドアを開けたスーザンが、薬草の乗った盆をテーブルに置いて、香菜に駆け寄った。


「いったい、どうなさったのです」


「ちょっとコルセットを外そうと……」


「それはなりません。気分が悪いのでしたら、少しだけ緩めて差し上げましょう。薬草もお飲みになってくださいまし」


 香菜はおとなしく粉末状になった薬草を舐めた。


「げほっ」


 苦い。それに、口の中に張り付いてむせてしまう。


 水泳選手だったころは、ドーピングを恐れてほとんど薬を飲んだことがなかった。こういうタイプの粉末を飲むのは初めてかもしれない。


「まあ」


 スーザンがベッドのそばで腰をかがめた。

 ベッドの下の不自然な岩に気づかれたか、と心臓が跳ねたが、スーザンが拾い上げたのは火かき棒だった。


「火かき棒が、こんなところに」


「あ、はは、ちょっと背中がかゆくて」


「はしたないですよ、姫様。あなたは仮にも一国の……」


 くどくどくど。スーザンの小言を右から左へ流しながら、香菜はさっき転んだときのことを思い出していた。


 そういえば、ぶつかった暖炉から妙な音が鳴った気がする。コーンというか、カーンというか、なにか空洞が響くような音。


 暖炉はレンガ造りで、あまりそんな音が鳴りそうな気配はない。

 まさか、自分の頭が空っぽすぎて鳴ったとか、そういうわけでもない……と思いたい。


「聞いておられますか、姫様」


「え、ええ。お姫様だという自覚を持てみたいな話だっけ?」


「はあ……。まったく、やはり最近の姫様は何か変でございますね。もう少し休まれて、頭をお冷やしになってください。私はこれで」


 スーザンが部屋を出て鍵を閉める。

 スーザンの足音が聞こえなくなってから、香菜はベッドをそろりと抜け出し、火かき棒を握り締めた。


 あの暖炉、絶対に何かある。

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