1-2 雑巾係の少年タオル

 スーザンがいなくなって、1時間以上が経過した。


 布団をかけられているのに、全身が震える。

 ここが高所だと思い出すだけで、恐怖に体が支配される。


 さっきスーザンに色々聞いておけばよかった。あとで、下へおりたいと言ってみよう。


 カタン、とドアの付近で音がした。

 板張りの扉の下の方にある小さな穴から腕がにゅっと現れて、簡素な料理の乗った盆が差し込まれる。


 腕はスーザンのものよりもずっと細く痩せこけていて、手は小学生の子どもくらいの大きさだ。


「待って!」


 腕に向かって、香菜は大声で言った。

 腕はぎょっとしたように跳ねると、ひゅっとドアの向こうに引っ込んで、パタパタと遠ざかっていく足音がした。


「ああ、待ってってば!」


 香菜が慌ててベッドから飛び降り、ドアに駆け寄ると、足音が止まって少し逡巡するような様子を見せてから、再びパタパタとドアの向こう側に戻ってきた。


「びっくりさせてごめんなさい。あなたは誰?」


 香菜が尋ねると、少しためらいがちに、ドアの向こうの人物が答えた。


「さあ、わからない。スーザンたちはおいらのこと『雑巾係』って呼ぶけど」


 声変わり前の男の子特有の、少しかすれた声で彼は答えた。


「名前がないの? 雑巾……だとちょっとかわいそうだから、とりあえずタオルって呼ぶね。タオル、この食事はあなたがもってきてくれたの?」


「そうだよ。あ、でも飯は汚くないよ。雑巾触った後はちゃんと浄化魔法かけてるし」


「そうなのね。あなたはスーザンの子どもなの?」


 タオルは少し考えてから、「考えたこともなかったや」とつぶやいた。


「おいらもあんたに聞いていいかい?」


「ええ」


「あんたには名前があるのかい?」


「もちろん。香菜よ」


「カナ、か。あんたは悪いお姫様なんだろ。どんな悪いことをしたんだい?」


 悪いこと?

 香菜が首をかしげていると、下の方からスーザンの声がした。


「雑巾係、そこで何をしているの!」


「やべ、スーザンだ。おいら、あんたとは話しちゃいけないって言われてるんだ。だからスーザンには内緒にしといてくれよ」


 タオルは早口で言うと、香菜が何か言う前に、足早に階段を降りて行ってしまった。


 香菜はタオルが運んできた食事を眺めた。

 芋とも魚ともつかない干した茶色の何か、豆の入ったどろっとしたスープのような何か、しなびて端が変色した青菜のサラダ、普通のパン。


 パンだけでもまともそうでよかった。香菜はため息をついて、料理の乗った盆を小さなテーブルの上に置いた。


 数時間経つと、部屋が薄暗くなってきた。カーテンの隙間から差し込む陽光が赤くなり、小さくほの白くなっていく。


 夜だ。このファンタジー世界にも夜はあるのだろう。

 

 ドアがノックされて、燭台を持ったスーザンが入ってきた。


「カナリア姫様、お休みの時間でございます。おや、お食事をほとんど召し上がっていないではありませんか」


 香菜は愛想笑いをした。料理はパン以外は変な臭いがして、とても食べられたものではなかった。


「寒くはございませんか。暖炉に火をつけてもよろしいですか」


 スーザンが燭台をテーブルに置いて尋ねる。「ええ」と香菜が答えると、スーザンは不思議そうな顔をした。


「いつも、火が怖いから小さく焚いてくれとおっしゃいますのに。今日は本当にどうなさったのです」


 カナリア姫は火が怖かったのだろうか、と、香菜はぼんやり思った。

 誰しも怖いものはあるものだ。自分は高いところが怖いし、と考えたところで、ここが高所であることを思い出して全身が震える。


 はやく下におりたいとスーザンに言ってみよう。


「ねえスーザン」


「どうなさいました」


「ここから出たいのだけれど」


 そこまで言ったとき、スーザンの顔がこわばったのを見て、香菜は思わず首をすくめた。


「だめ?」


 スーザンはため息をついた。


「姫様、何度も申し上げましたように、ここから出してさし上げることはできません。もし無理に下へ行こうとなさったら」


 スーザンのはしばみ色の目が鋭く光った。


「私はあなたを殺してでも阻止いたします」


 香菜は気圧されて何も言えなくなった。

 スーザンは本気だ。自分がここから出ようとしたら、本気で殺される。そう悟った。


 スーザンの眼光がふっとやわらかくなる。


「今日はずいぶんとご乱心でございますね、姫様。もうお休みになってくださいませ」


 スーザンは香菜をベッドに横たわるように促すと、手袋を外して香菜の頬に触れた。


「【ルーダ】」


 香菜は暗闇に引きずり込まれるように眠りに落ちた。

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