1-3 おねしょはいけませんよ

 香菜は水中にいた。深い海の中。しかし、恐ろしくはない。


 幼いころから水が好きだった。

 泳いだり、浮いたり。水は友達だ。だって、たいていの水は、高いところにはないのだから――。


 両手で水をかき分けながら深く、深くへと泳ぎ進めていくと、視線の先に水に揺らめく長い髪が見えた。

 青と灰色の中間のような色の髪……。


 その長い髪の女性が、泡を吐きながら口を開いた。水の中だったが、はっきりと声が聞こえる。


「【アキュアス】」


 強烈な落下感を覚えてはっと目を覚ますと、石の天井が見えた。監獄塔『バベル』の100階だ。

 激しくなりかけた呼吸を飲み込んで、香菜はどうにか起き上がった。


 水の中にいたのは夢だったのだろうか。夢から覚めるときの「落ちる」感覚は、いつまでたっても慣れない。


 朝のベッドはおそろしく冷たい。いや、冷たすぎる?


「え、うそ」


 ベッドとドレスがじっとりと濡れていた。


 ドアがノックされて鍵の開く音が聞こえ、水差しを持ったスーザンが入ってきた。


「おはようございます、カナリア姫様。おや」


 スーザンは濡れてしみのできたシーツを見た。


「おねしょでございますか」


「いや、ちがうのスーザン」


「言い訳なさらないでもよろしいですよ、姫様。たしかに普通の娘であればおねしょなどしないでしょうが、姫様は昔から多い方でしたからね。最近はおまるも空でございますし」


 そう言って、スーザンは水差しを置いた。


「え、その水差しってもしかして」


「おまるでございますよ。水差しではなく。よくご存じでございましょう」


 香菜は顔をしかめた。

 あの水差しには少しだけ水が入っていて、一度飲もうと思ったのだが、変なにおいがしたのでやめたのだ。まさかトイレのかわりだったとは……。飲まなくてよかった。


「さあ、シーツを外しますのでこちらへ。まあ、お召し物も濡れておりますね。お召し変えいたしましょう」


 スーザンがコルセットの紐を緩めていく。

 コルセットが外されたとき、体がすっと軽くなるような、血が巡ってほてるような、そんな感じがした。


「スーザン、コルセットを普段から外すことはできないの? 締め付けられていて苦しいんだけれど」


 香菜はおずおずと聞いてみた。


「とんでもございません。あなたは謹慎の身ではございますが、一国の姫君なのですよ。気高くあらねばなりません。それともなんですか、コルセットを外したいとおっしゃるのですか?」


 スーザンの目が光った。「逃げようとすれば殺してでも止める」と言ったときと同じ目だ。

 のどがひゅっと詰まって乾く。香菜はぶんぶんと首を横に振った。


「いえ、いいえ。ちょっと言ってみただけ」


「ならよろしいのですが」


 スーザンは香菜に何枚も下着を着せて、その上から前のものと似たような簡素なドレスを被せ、コルセットの紐をきゅっと締めた。


「私は下でシーツとドレスを干してまいります。昼すぎにはまたこちらへ伺いますので」


 スーザンが布を抱えて部屋を出て行った。

 ガチャ、と鍵をかける音がする。


「私、ほんとにおねしょしちゃった……?」


 確かに水中にいる夢を見たし、そういう夢をみるとおねしょをしやすいのも事実だ。


 そういえば、と夢の内容を思い出す。

 あの女性、何か言ってたっけ。


「たしか……【アキュアス】」


 どかん、と前方に数リットルの水が噴き出した。


 ぎゃあ、と声を上げて香菜は後ろにひっくりかえった。

 スーザンの来る気配はない。気づかれてはいないようだ。


 水は、岩の床に吸い込まれるようにして少しずつ引いて消えて行った。


「なに、今の」


 よくわからない。もう一度やってみよう。


「【アキュアス】」


 慎重に唱えると、両手の間にふわっと水の塊が球体になって現れる。水を浮いたまま維持することはできず、びしゃっと床に叩きつけられるように落ちた。


 もしかしてこれって……。


「私の魔法!?」

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