0-2 神様?
「――し、――ぬし、おぬし!」
香菜ははっとして目を覚ました。
目の前に広がるのは、真っ白な何もない世界。
「って、きゃああああ!」
何もない、ということは当然地面もない。
足がすかっ、すかっと空を切り、落ちていく感覚に満たされる。
「おぬし、聞いておるか!」
耳元で老人と子供の声の混ざったような声が話しかけてくるが、それどころではない。
なんたって香菜は、筋金入りの高所恐怖症なのだから。
「きゃああ、助けて! 落ちる、死ぬ!」
「おぬしは既に死んでおる。はあ、まったく」
パチン、と指を鳴らすような音がして、ふいに草原が現れた。香菜は地面にどてっと尻もちをついた。
「し、死ぬかと思った」
がくがく震える両足で立ち上がろうとすると、「だから死んでおると言うてるじゃろうが」と声がする。
「まったく、おぬしが騒ぐから大地を創造してしまったわい」
「あなたは? どこにいるの?」
香菜は周囲を見渡した。一面の草原。青い空に、照り付ける太陽。ところどころに低木が生えているほかは、何もない。
「わしはどこにもおらん。実体がないからの。ここは死者が来る場所。わしはこの空間の管理人じゃ」
ということは、自分は死んだということだろうか。香菜は少し考えて、はっとした。
「私は死んで、ここは天国で、あなたは神様ってことですよね」
「神、ではないがまあそんなところよの」
「もしかして、私、転生するんですか?」
すこしわくわくしながら聞いてみた。
そういう小説を読んだことがある。トラックに轢かれて死んだ主人公が、ファンタジー世界に転生して成功する物語。
一度はああいう主人公になってみたいと、香菜も思ったものだ。
死んだのは悲しいことだが、転生して新しい人生を始めてみるのも悪くない。
「転生? ああ、おぬしらの世界で流行っているあれか。あんなものが現実にあるわけなかろう」
「え」
「ここはおぬしらが言うところの天国じゃ。死んだおぬしは一生この空間で暮らすのじゃ」
再びパチンと指を鳴らす音がして、地面が消えた。
「きゃあああああっ!」
「おぬしは生前悪行をほとんど行わなかったからの。ここに来れたのはラッキーじゃ。何せ、地獄に落ちるやつらもおるからの。おぬしを殺したハイジャック犯のように……って、おーい、聞いておるか?」
「ああああ、きゃああああ、高い、落ちる、助けて!」
「落ちてはおらん、無に存在しておるだけじゃ」
「ぎゃああああああ」
「はあ、まったく。うるさいやつじゃの。いいか、よく聞け。さっきも言ったように、おぬしは生前悪行を働かなかった。その褒美として、3つの願いをかなえてやる決まりになっておる。もちろん、生き返らせてくれとか、願いを増やしてくれなんていうズルはダメじゃよ。さあ、おぬしは何を願う?」
願い?
今求めているものなんて、ただ一つだ。
「地面、地面をください!」
「地面? そんなのでよいのか。ほれ」
パチン。
さっきの草原が現れて、再び香菜は尻もちをついた。
「ひい、助かった……」
「高所恐怖症というのは難儀じゃのう。それで、2つ目の願いはあるかの?」
地面を出す。すごい能力だ。
香菜はううむと考えた。
やっぱり、転生へのあこがれは捨てきれない。剣と魔法、花とドレスにあふれるきらびやかな宮殿生活、魅力的なキャラクターたち。
せっかく死んだなら、せめて……。
「私、ファンタジー世界に転生したいです!」
「何度も言うておるじゃろう、転生などこの世にはない。漫画の読みすぎじゃ。そもそも、転生とは『生』の一種。生き返りが禁止の決まりじゃから、それはルール違反じゃ」
「どうにかなりませんか」
「欲深いやつじゃの。ちょっとおぬしの頭の中を見させてもらうぞ。……ふうむ、なるほど、魔法に王族に登場人物たちか。そのくらいなら、この大地でも実現できるじゃろう。見ておれ」
パチンと音がすると同時に、地面が揺れ始めた。
「じ、地震!?」
香菜の足元の地面ががらがらと崩れ落ち始めた。
「わっ、割れてる!?」
「落ちはせん。安心せい」
香菜を中心に草原がぱっくりひび割れ、大きな音をとどろかせながら二つに割れていく。
香菜は巨大な峡谷の上に宙に浮いている形となった。
「よーし、ここからがわしの真骨頂じゃ。行くぞい」
パチン、パチンと指が鳴るたびに、ひび割れが左右に広がり、眼下千メートル以上下の谷底に「街」が形成されていく。
無数の建物、中央に城、外れに畑や湖、周囲に山や森。
香菜は空の上から、新しく創造される世界を一望していた。
「わはは、急ごしらえじゃが綺麗な景色がよく見えるじゃろ。おぬしが望んだファンタジー世界じゃ。なあ、おぬし。……おぬし?」
「きゃああああ、高い、高いっ」
「はあ、そうじゃった。そういえば高いところが苦手じゃったの」
「ひいいいいい」
ばたばたさせる手足が空を切る。ぎゃあぎゃあ騒ぐ香菜を見て、声はため息をついた。
「ふう。まあよい。3つ目の願いはあるかの?」
「おろしてください、早く! 早く!」
「よしきた。3つ目の願いは『早く』『おろす』じゃな」
再びパチンと指の音が聞こえて、いきなり周囲が薄暗くなった。
ずっと明るい外にいた香菜は、目をしぱしぱさせた。
周囲は石の壁に囲まれていて、ベッドに小さな机に格子窓がひとつ。どうやらどこかの部屋の中にいるらしい。足元にはちゃんと床があって、ほっとする。
「とりあえず、一番距離が近いところにいた人物におぬしをおろしたぞ」
「ひい、怖かった。人物におろした、ってどういうことですか」
「さっきまでのおぬしはただの魂じゃった。せっかく街をつくってもそこで暮らすことはできん。じゃから、街の適当な住人の体におぬしの魂を憑依させたということじゃ」
「もしかして、転生ってことですか!」
「いや、違う。じゃが、このファンタジー世界での生活はできるじゃろ。これで、おぬしの願いは3つとも叶えたの。じゃあ、わしはこれで」
ふっと耳元で風が吹いて、何も聞こえなくなった。
しん、と静まりかえった部屋の中で、香菜は少し慌てて辺りをきょろきょろ見回した。
「神様、いなくなっちゃったんですか? 神様!」
「なんですか、騒々しい」
いきなり部屋の入口が開いて、香菜はひっとのどを鳴らした。
入ってきたのは、中年くらいの女性。紺の地味なドレスにくすんだ白いエプロンをかけ、髪をひっつめに結っている。
女性は片手に持っていた水差しのような容器を小さな木のテーブルに置いた。
「姫様、あなたは謹慎の身であることをお忘れなきよう」
「ひ、姫様? 私が? あなたはだれ?」
女性は眉をひそめて、香菜の姿をじろじろ見た。
「まだ寝ぼけていらっしゃるのですか、カナリア姫様。私はあなたの侍女スーザン。この監獄塔『バベル』の100階にとらわれたあなたをお世話差し上げ、同時に監視する人間です」
「スーザン……監獄塔……100階……ってまさか!」
香菜は慌てて窓に駆け寄った。
格子の隙間から見えたのは、風の吹き荒れる空。そして、数百メートルも下に広がる、ファンタジックな街並み……。
「ひいいいいいいい! 高いっ!」
一番「近い」ところにおろしたって、そういうこと!?
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