64 魔王への宣戦布告
その日、車内のBGMはプリンセス・プリンセスの「世界で一番熱い夏」だった。青葉ママはご機嫌そうに曲のサビに合わせて歌っているが、残念ながら音痴だ。
「モフちゃん、もう一回だけ練習しよっか?」
青葉ママは運転しながら横目でチラリと助手席の俺を見る。俺は小さく「ワン!」と答えた。
「まずね、飼い主役の役者さんがセリフを言うの。『どうしようか?』ってモフちゃんに話しかけるのね。そしたらモフは、何て言うんだっけ?」
「ワウワウワウ、ワフーーン!」
「そうそう、モフちゃん天才! その調子で本番も頼むわね」
もちろんだ、任せておいて青葉ママ。
このセリフは、ウシダ師匠の前で繰り返し練習してきた。いまさら一言一句、間違えるはずがない。それなのに、緊張もしてきた。なにしろこのセリフは、魔王への宣戦布告の意味が込められているのだから。
◇◇◇
原宿駅から程近い、代々木公園。広大な公園の一角が、この日のCM撮影のロケ場所だった。
リードをつけられて青葉ママに先行するような形で歩いていた俺は、前方に20人くらいの撮影スタッフが機材を準備している様子を見つけた。
そのスタッフに近づくと、俺の姿を認めて一人の男が駆け寄ってきた。
口髭に顎髭、派手なキャップを被った、お馴染みの「ザ・監督」だった。名前は聞いてないけど、みんなが彼を「カントク」と呼んでいるから、俺も一応挨拶しておこう。
「ワン!(よおカントク、久しぶり!)」
「おおー、天才犬の登場だ! 今日はシクヨロね〜」
説明しよう。
「シクヨロ」とは、テレビや映像業界で使われる、いわゆる「逆さ言葉」の一つで、「よろしく」の上下二文字ずつを入れ替えた言葉である。他にも有名な逆さ言葉として「ザギン(銀座)」「ギロッポン(六本木)」などがある。令和の世ではさすがにほぼ絶滅しているが、平成元年頃の団塊世代の人たちは口を開くたびに逆さ言葉やオヤジギャグを炸裂させ、周囲を困惑させていたのである。
続いて、飼い主役の役者さんがにこやかな笑顔で近づいてきた。彼は俺の頭を撫でながら、心でこんなことを思っていた。
――良かった。コイツ、今日も調子よさそうだ。コイツのおかげで俺も一躍有名俳優の仲間入りができたんだ。もし今日失敗したら、許さねえからな――
にこやかな表情の裏に隠される、強烈な自我。うー、こわ。まあ心配しなくても、俺はCM撮影以上に大事な使命があるんだから、心配しなくてもミスなんかしねえよ!
「では、ラブフルCM第2弾、草原をかける飼い主とモフちゃん編。クライマックスのシーン3、カット2、よぉーい、スターッ!」
カチンッ! CM撮影用の大型カメラの前で、カチンコが打ち鳴らされた。
◇◇◇
カメラは飼い主の目線の高さに据えられ、見下ろすように俺の姿を映している。そして、飼い主のセリフが俺に向けて話される。
「どうしようか、モフ?」
その次が、俺のセリフだ。俺は頭の中でセリフを反芻し、一気にセリフを放った。
「ワウワウワウ、ワフーーン!」
なんてことのない、犬の鳴き声。だが日本の動物がこの言葉を聞いたなら、このような意味の言葉だと誰もがわかる鳴き声だ。その意味は……
『進化した勇者がお前を倒す。魔王よ、かかってこい!』
魔王とその使徒、眷属、四天王、魔王の配下達からなる魔王軍。その全てに向けた、俺たち動物の宣戦布告。
俺が住んでいる場所を、魔王軍はすでに知っている。四天王であるチベット犬の
その意味は「お前達をすぐに倒す!」という固い決意だ。
「カ〜〜〜ット! オーケー、一発OKだ、モフちゃん! さすが天才犬だよぉ、ナイスですね〜」
撮影現場に張り詰めていた空気がパアッと晴れたように緩む。スタッフも役者も、心配そうに見ていた青葉ママもザ・監督も、みんな笑顔だ。
ただ、俺だけがどうしても笑顔を見せることができない。
だって、本当にもう取り返しのつかない魔王との戦いに、足を踏み入れてしまったのだから。このセリフが入ったCMは、人気CMだけにすぐに話題になるだろう。全国どこでも流されるだろう。
そして魔王軍は、激怒するだろう。もしかしたら、CMの放送日に俺の住む多摩川17地区に攻め入ってくるかもしれない。魔王の四天王、
その時、俺たちは本当に奴らを倒すことができるのだろうか。
◇◇◇
俺が魔王に宣戦布告したCMは、1989年8月10日に放送された。この日は、辞任した宇野総理の後を継いだ、海部俊樹による海部内閣が発足した日だ。
総理就任の夜のニュースが終わった後、全国放送にて、そのCMが流された。
「ワウワウワウ、ワフーーン!(進化した勇者がお前を倒す。魔王よ、かかってこい!)」
◇◇◇
東北の、とある山中にある山小屋。そこには人の気配はまったくない。なのに、山小屋にある室内アンテナ付きの14インチテレビが煌々とつけられ、その前にはどっかりと1匹の動物が寝そべりながら画面を見ていた。
テレビが海部内閣発足のニュースを流した後、不意にその声が聞こえた。
「ワウワウワウ、ワフーーン!(進化した勇者がお前を倒す。魔王よ、かかってこい!)」
その動物はビクリと立ち上がり、画面の中にいる白い犬を凝視した。
「ガアアア……!(このクソ犬……!)」
その動物は右足を振り下ろし、犬が写っているテレビの横腹を思いっきり殴り飛ばした。14インチのテレビは一瞬で粉々に砕け、山小屋の壁に激突した。
「ガルルルル……!(東京、か。いいだろう、すぐに殺してやる)」
その動物はドアまでのそりのそりと歩くと、体ごと激突してドアをぶち破った。そのまま、のそのそと山を下っていく。
向かうのは、東京。生意気な口を聞いていた犬を目指して。
◇◇◇
東京・港区の高級マンション。総煉瓦造りのいわゆる「億ション」のリビングで、大型プラズマテレビの前に陣取っていた真っ黒い大型の犬も、そのCMを同時に見ていた。
「ワウワウワウ、ワフーーン!(進化した勇者がお前を倒す。魔王よ、かかってこい!)」
その言葉を聞いた瞬間、大型犬は笑い出した。
「ガハハハ! あのブルブル勇者犬、面白え! そうだな、どうやって遊んでやるかな?」
その隣に、ワインレッドのゆったりとしたバスローブをまとった女性が、手にワイングラスを持ちながらやってくる。
「どうしたの? ご機嫌じゃない、
「バウッ!(テレビを見ろ)」
「ん……?」
女性がテレビを眺めると、白いポメラニアンが役者に抱かれ、嬉しそうに顔を舐めているシーンが映っていた。
「
「バウっ!(頼むぜ、恭子さん)」
恭子と呼ばれた女性は、ワインを一口飲んだあと、コードレスホンで電話をかけ始めた。
「社長? 恭子よ。最近テレビで見るポメラニアンいるでしょ? あの子、うちの
恭子と呼ばれた女性は、まるで犬の言葉と気持ちがわかっているかのような行動をとる。その隣に座る黒い大型犬は、満足そうに太い牛骨をガリガリと齧った。
「ガルルル……(楽しみだぜ、ブルブル勇者よ)」
◇◇◇
さらにもう一件。こちらは広い一軒家にある、豪奢で巨大なリビングだ。
そこにいた動物も、同時にそのCMを見ていた。
その動物は、画面に映る白いポメラニアンをじっと見つめていた。
そして世にも悲しそうな声で「キュ〜ン」と鳴いたかと思うと、目から大粒の涙をこぼした。
「もう、取り返しがつかないね……」
その動物の涙は、しばらく涸れることなく流れ続けた。
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