第四章 勇者犬、芸能界デビューする
61 まな板の上のポメラニアン
俺の飼い主である佐藤さん家のパパさんとママさんに連れられ、やってきたのは銀座にある造形の変わった有名なビルだった。
おお、これは……有名な広告代理店のD社の旧館じゃないの。そういえばサラリーマン時代、ここにあるD社の子会社と取引をしていて、ここに来たことあったなぁ。でもなんでここに?
俺はペットを入れるプラスチックのケージに入れられているが、周囲には他にも緊張した面持ちの人たちが、佐藤パパさんママさんと同様、ペットケージを手に抱えている。
うむ、これはもしや……俺はこのあと起きることを何となく予想した。
「それでは、ラブフル社のオーディションにいらした方は、こちらの会議室にお入りくださーい」
誰か若い男性の声がする。そして、俺の予想はビンゴだ。
今日は多分、俺のオーディションなのだ。何のオーディションかはわからないが、10匹程度の犬の匂いがするし、きっと1匹ずつ別室に呼ばれ、何か芸をしたり、ジロジロ見られたりするのだろう。
俺は人間時代、役者に憧れていたが、実際にやったことは一度もなかった。どちらかというと、仕事の絡みでオーディションをする側に回ったことは何度かある。だから、オーディションで何を求められているか? ということに関しては玄人と言っても良いだろう。
だけど、今の俺は可愛いポメラニアン。何のオーディションかもわからなければ、対応のしようがない。ママさん、何かヒントくれよ! よし、心を読んでみよう。
――うううう、こっちが緊張するるるる――
ママさんはいつもの笑顔がなく、顔面が蒼白になっていた。
「ダメだこりゃ。」俺はまるで長介さんのようにつぶやいた。
説明しよう。
「ダメだこりゃ」とは、昭和時代に大人気だったお笑いグループ・ドリフターズのリーダーであるいかりや長介さんが、コントの締めで言っていたオチ台詞である。
1977年から98年まで続いた「ドリフの大爆笑」内のコントで、大体は志村けんや加藤茶がとんでもないことをして場がめちゃくちゃになった後に発せられ、当時の小学生男子の流行語だった時期もある名台詞なのである。
とにかく、ママさんは役に立たない。パパさんの心はいつも通り読めないので、俺は周囲で犬を抱えている人の心を読んでみることにした。
――大丈夫よ。ウチのエカテリーナちゃんが一番可愛いざます!――
――ウチの小五郎は、おとなしくさえしてれば可愛いんだけどな。一回暴れちゃうと取り返しつかないからなぁ――
まあある程度予想通りだが、どの人も自分の犬の心配しかしてない。俺が知りたいのはオーディション内容だっちゅうの。オーディション現場に行かないと、わからないかもしれないね。
「では1番のジョン君、お入りください」
会議室から順番に呼ばれて、別部屋のオーディション会場に呼ばれるスタイルらしい。もうこうなったら、あとは野となれ山となれ、だ。
10分毎くらいに番号と名前が呼ばれ、俺が呼ばれたのは6番目なので、1時間は経っていただろうか。
「では6番のモフ君、お入りください」
「はは、はい!」
ママさんが素っ頓狂な声をあげて立ちあがる。パパさんが俺のケージを抱えたままゆっくりと立ち上がり、呼ばれた声の方に移動を開始する。
いよいよ、俺のオーディションの出番だ。
部屋に入ると、俺はケージから出され、犬が1匹入れるようになっている檻に移された。
檻の前には、小さいビデオカメラが檻に向かって三脚で取り付けられてある。おおお!これはソニーのCCD-TR55、通称「パスポートサイズ」の8ミリビデオじゃないか!
説明しよう。
1989年当時、家庭用のビデオカメラはそれほど普及していなかったが、この年の5月31日に発売された、ソニーのCCD-TR55、通称「パスポートサイズ」は当時人気絶頂だった浅野温子さんのCMの効果もあって大ヒットとなり、当時流行していた海外旅行といえばこれ! というぐらいの人気商品になったのである。
なるほど、このカメラに向かって何か演技をすれば良いわけだね。犬である俺に台本を見せてもらえるわけがないので、エチュード、つまり即興劇をしなければならないということか。これは結構ムズイいな。
口髭に顎髭、派手なキャップを被ったいかにも「ザ・監督」といった風体のおじさんが、大声で説明を始める。
「本日はお越しいただきありがとうございます。今回のラブフル社のCMですが、飼い主さんにストーリーを簡単に説明しますね」
おお、ありがたい! ストーリーがわかれば演技プランも立てようがあるってもんだ、と俺は演技経験ゼロの癖に思った。
「くだびれた中年男性が、ペットショップにやってきます。その時、自分が飼おうと思っていたのと違うワンちゃんを見つけます。そのワンちゃんと見つめ合い、ワンちゃんのあまりの可愛さに心を打たれる、というストーリーです。つまり飼い主さんには、ワンちゃんが目をうるうるしながらカメラを見つめる、という演技をさせていただきたいです」
ほお、なるほど……でも、このCMって、あのCMのことだよね。
たしか消費者金融会社のCMで、同じ展開のものがあった。あれって1989年だったっけ? いや違う、俺は人間時代の嫁さんと、結婚して数年のときに一緒にそのCMを見て「可愛いワンちゃんだね」って言っていたのを覚えている。
ということは、そのCMが放送されていたのは平成15年とか、そのぐらいのはず。俺が今生きている平成元年とは、15年の時代のズレがあるのだ。
なぜ時代がズレている? こんな経験は初めてだ。
もしかして、俺がこの時代に来たことで何らかのタイムパラドックスが発生しているのか?
それとも……『魔王の影響』なのだろうか?
「では、さっそく演技をしてもらいます。中年男性役、スタンバイして!」
ザ・監督の大声で俺の思考が中断された。おっと、今は考えてもわからないことは置いておこう。
とにかく、あの消費者金融会社のCMのように演技をする、それが先決だ。
俺はまな板の上の犬だ。今は、演技に集中しよう。
「では行きますよ。よぉ〜い、スターッ!」
監督が映画のカチンコがわりに手をパチンと大きく叩いた。演技スタートだ。
中年男性役が、周りを見ながら、俺の檻の前にやってくる。
俺はじっと、中年男性役を見つめる。
中年男性役の人が、俺の顔をじっと見つめる。
俺は中年男性役を見つめながら、少しだけ体を震わせる。プルプル。
中年男性役の目が、俺をみてウルウルしてくる。
俺はプルプルしながら中年男性を見つめ、最後に一言「キュ〜ン」と鳴いた。
「カーーーット!」
ザ・監督の大声で演技は終了。
「おおおお! いいよぉ! フワフワのワンちゃん、さいっこうだよぉ!」
監督が俺の元に駆け寄り、俺を抱き上げた。
「俺が頭の中に描いていた、かわいそうな子犬、思わず飼いたくなっちゃう寂しさ、守ってあげたくなる庇護欲をそそられる声、それらすべてを表現してたよぉ!」
ザ・監督の口臭は臭かったが、どうやら俺の演技には大満足してくれたらしい。そりゃそうだ、俺は完成したCMをいつもテレビで見てたからな。その犬と同じ演技をするなんてお茶の子サイサイだ。
「ええと、名前は、たしかモブくんだったっけ。よし、このワンちゃんにしよう。よろしく、モブくん!」
誰がモブだ! 俺は勇者モフだ!
俺は抗議の意味も兼ねて「ワン!」と大きく吠えた。
そしてこの日から、俺の生活はそれまでとは180度転換することになったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます