58 国民の象徴

唸り声を上げながら体を低くし、尻尾を立てて巨大モグラに向き合う俺。

対するは、まるでアリクイのように2本足で立ち、巨大な両腕の爪をこちらの向けながらこっちを見据えている巨大モグラの女王。戦い慣れているのか、その姿に隙は全く見えない。


いったい、どうすればいい? あの爪でザクリと肌を切り裂かれては、こちらの勝ち目はない。思い出せ、汐田のおっちゃんの猛特訓を思い出せ!



◇◇◇


夕方の陽が差し込む合気道道場、一日中汐田の特訓を受けていた俺は、疲れ切って皿の水を舐めていた。もう全身がバラバラになったような疲労困憊状態だった。


「スピ公、水を飲んで一息ついたら、次の特訓に移るぞ」

「キャウ〜ン(もう死んじゃうよ、勘弁して)」

「そういうわけにはいかん。戦いはいつ起こるかわからんし、相手がこちらの状態を考えてくれるわけではない。そんな時でも戦わねばならん時があるのだ」


特訓をはじめて4日目、汐田のおっちゃんは犬語などわかるはずもないのに、なんとなく俺の声色だけで俺の言わんとすることを正確に読み取ることができるようになっていた。すごいな汐田のおっちゃん!

それはそうと、何もこんな疲れ切った時にすぐに稽古を続けなくとも、と思うけどさ。


「さて、次は相手が刀を持っている時だ。相手は刀、こちらは素手。普通なら勝てるはずがない、と思うだろう?」

「ワン!(勝てるわけないだろ!)」

「ハハハ、そう言うな。合気道には、そんな時の対処法もあるのだ。まず相手が刀を持って攻撃してくる瞬間を見極めるんだ。そして……」



◇◇◇


そして……

そうか。あの巨大モグラの爪は、刀だ。あの爪を刀に見立てれば、俺は一撃必殺で奴を倒すことができるかもしれない。


ジリ、ジリ、ジリ……

巨大モグラが両腕の爪を体の前に構えながら、2本足で俺との距離を少しずつ詰めてくる。俺が動けば、その瞬間にどちらかの爪を振り下ろすという心づもりなのだろう。


(相手が刀を持って攻撃してくる瞬間を見極めるんだ)


汐田のおっちゃんの声が頭に響く。


(そして……相手が動いてきた瞬間、入り身をする)


説明しよう。

入り身とは、合気道で最も重要な要素の一つである。入り身とはその字の通り「身を入れる」ことで、相手の死角に身を入れたり、相手の中心に身を入れ、次の行動を行うための重要な動きなのである。


ジリ、ジリ、ジリ…… ザザッ!

俺と1メートルほどの距離になった途端、巨大モグラは距離を詰め、右前足の鋭い爪を振りかぶった。速い! 目で追うことができないほど、その動きは素速い!


その瞬間、俺はさらに巨大モグラとの距離を詰める。俺が動けなくなるか、それとも後ろに逃げるかと想像していたらしい巨大モグラは、一瞬驚いたように動きを止めるが、もう遅い!


俺は巨大モグラの胸に頭突きをくらわせ、その体制を崩した。


「ゲッ!」


だがそれほどの威力はない。巨大モグラは体制を崩しつつ、振り上げた右前足の爪を、俺の体に向けて振り下ろした。


「死ねえええぇっ!」


右前足の爪が俺の体に届きそうになる直前。

俺は地面を蹴り上げ、低くなっていた巨大モグラの左腕にジャンプ、そのまま左腕を登った。


「なにぃ?」


そして俺は巨大モグラの首を、思いっきり噛む。嫌なニオイが敏感な犬の鼻に入り込んでくるが、構わず全身の力を顎にこめて、俺は首の後ろを噛み続ける。


「ケケ、ゲゲゲーッ!」


苦しそうに悶え、全身を振って俺を振り落とそうとする巨大モグラ。だが犬の顎の力を舐めてはいけない。俺は振り落とされないよう、さらに顎に力を込める。


その時、それまで近くで様子を伺っていたサバトラが大声で叫んだ。


「今だ、任せるニャァ!」


勢いをつけて俺と巨大モグラの頭上に飛び込んできたサバトラは、巨大モグラの後頭部を思いっきり蹴飛ばした。俺に首を噛まれたまま、巨大モグラは顔から地面に頭をぶつける。


「ゲゲッ!」


苦悶の大声を上げた巨大モグラは、そのまま一瞬ビクリと体を震わせたのち、動かなくなった。それを確認し、俺はやっと口をモグラの首から外す。モグラの首には、犬の噛み傷が深く刻まれていた。


「……死んだかニャ?」

「いや……、気絶しているだけだ。あれだけの勢いで地面に叩きつけられたら、しばらくは起きないだろうけどな」


よろよろと立ち上がりながら、俺はサバトラに言った。

どうやら、巨大モグラの女王モグザベスを倒すことができたらしい。


「ギリギリの戦いだった、な」

「そうだニャー。僕ももうダメだニャー」


そう言うと、サバトラはその場にくたくたと倒れ込んだ。お前、俺ほど動いてないよなぁ、なんで俺より先に倒れるの? なんて思っていた俺だが、こっちももう限界だ。俺もその場に、倒れるように伏せた。


もう一歩も動けない。少なくとも、少し休ませてくれ……

それでも薄目を開けて周囲を見ると、空から1羽のスズメが倒れているフレンチブルドッグに近付いている。


ああ、チュン太が来てくれた。ソース様の怪我、なんとかしてやってくれ。あとは任せた。そして俺は最後に、サバトラに向けて一度言ってみたかったセリフを呟いた。


「サバラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。なんだかとても眠いんだ……」


古い名作アニメの有名なセリフを言い終えた瞬間、俺の意識は闇に落ちた。



◇◇◇


俺は、夢を見ていた。すぐに、夢だと自覚していた。


俺は、その夢の中で薄目を開け、目の前の風景を見る。


波音のする砂浜。吹き抜ける潮風。遠くで歓声を上げる子どもたち。

照りつける太陽。ここち良い潮風。そして、俺のすぐ隣の、暖かな気配。


「起きたの、ポメ? いいのよ、まだ寝てて」

「……いや、起きたいんだ。君の顔を見たいんだ」


すぐ隣の、暖かな気配を、視界に収めたい。

そうすれば、俺はすぐにでも、幸せな気持ちになれる。

それがわかっているから、俺は起きたいんだ。


「……まだ、私たちは会えないわ。ポメ、私を探して」

「探して、って。いま君は、そこにいるのだろう?」

「ううん、私はここにいない。あなたが私を探さない限り、私たちは永遠に会うことはできないの」


そんなはずはない。こんなにもすぐ隣に、君の暖かな気配を感じているのに。

それなのに、会えないなんて。


「もう一度言うわ、ポメ、私を探して……」



◇◇◇


今度こそ、俺は目を覚ました。

何か夢を見ていたような気がするが……なんだったか、思い出せない。


気づくと、周囲は明るくなっていた。小鳥たちの鳴き声からすると、もう朝になっていることがわかる。

俺はゆっくりと立ちあがろうとするが、全身を筋肉痛に襲われ、すぐにへたり込んでしまった。


「アイタタタ。そういえば、ずっと戦いっぱなしだったからな」


ふと横を見ると、サバトラが仰向けになって地面で眠っていた。なんと無防備な。猫ってこんな体制で寝るんか? 野生の猫だったらまずないだろう寝方だな。


と、そこで違和感に気づいた。

ここは、さっきまで死闘を繰り広げた伏見櫓のそばではない。


目の前には、大きな湖。いや違う、これは池、か? どこなんだろう、ここは?


そうだ、賢者ソース様はどうなった? それに、女王モグザベスは?

筋肉痛にめげず起き上がった俺は、周囲を見渡す。が、ソースの姿も、モグザベスの姿も見えない。最後に見たチュン太の姿もだ。


どこに行った? ソースは大きな傷を負っていたから、早くなんとかしなければならないのに。もしや、モグザベスが意識を取り戻して、賢者ソースを再び地下帝国に連行していったのか? 俺の心に不安な予想が過ぎった。


ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

穏やかな足音が、こちらに近付いてくる。これは、人間の足音だ。

まずい、逃げなくては。まずサバトラを起こして、そうだ、この池の反対側にまで逃げ込めば、奥に木が見えるから、そこまで……


その時、俺の心に「人間の感情」が久しぶりに飛び込んできた。


――犬と猫は、大丈夫ですかね――


――怪我をしたモグラと犬はなんとかなったけど、ふわふわの犬としましまの猫も、もしかしたら怪我していたのかもね。ちゃんと見てあげないと――


穏やかな、優しげな感情。

犬の直感で、この人間は動物に優しい人間だと確信できる、その感情の動き。

危険はまったくないと確信した俺は動きを止め、足音がする方を振り向いた。


すると、俺の目に、一人の壮年の男が歩いてくる姿が映った。

このお方は……俺は自分の目を一瞬疑ったが、それも無理ないことだった。


なんとその方は、日本の『国民の象徴』と呼ばれる、この皇居のあるじである男性だったのだ。

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