47 四天王の挨拶

 神奈川県から東京に入るには、多摩川を越えなければならない。多摩川は都会にある川というイメージがあるが、想像以上に流れは早く、犬2匹と猫1匹にとって泳いで渡るのはなかなかに困難だ。自然、橋を歩いて渡ることになる。


 さて、どの橋を渡って東京に入るか。俺が選んだのは、六郷橋だった。

 深夜、川崎競馬場を照明を横目に見ながら、人通りの少ない橋を歩く。


「やっと東京だな。今夜はどこで眠るのだ?」

「はい、チュン太が六郷橋を渡った先に良い寝ぐらを見つけています」

「もう、すぐ、だ、ニャ!」


 うざい。最近、サバトラがうざい。

 なぜ言葉が途切れ途切れなのかというと、サバトラはよく歩きながら人間で言うところの「シャドーボクシング」をして歩いているのだ。サバトラは「ニャドーボクシングだニャー!」と言っていたけど、どうみてもただの猫パンチだ。しかも変な踊り付きの。


「強くなる!」という気持ちは大事だし尊重したいが、それで強くなれるとは、傍目はためから見るとまったく思えないな。


 俺たち3匹が橋のちょうど中間あたりに差し掛かった時。東京側から、何か動物が歩いてくるのが見えた。かなり大きい動物だ。まるで熊のように、はのそりのそりと1匹で歩いてくる。


「……モフよ、イヤな予感がするぞ」

「はい、ソース様」


 大型犬が夜中に散歩しているのはよく見かける光景だ。だがは一緒に散歩している人間の姿が見えない。リードを外して歩いているのか、と後方を確認するが、人間の姿はない。そもそも首輪すらつけていない。


 は俺たちの前方20メートルほどの距離に近づくと、ピタリと動きを止めた。


「お主らは、賢者と勇者の一行だな?」


 野太い大声がその口から漏れる。橋を通る自動車のヘッドライトが一瞬、を照らし出し、俺はの正体を知った。

 あれは通称チベット犬、チベタン・マスティフだ。


 説明しよう。

 チベタン・マスティフとはチベット高原を原産とする犬で、体高は65センチ、体重は最大80キロにも達する大型犬である。中にはまるでライオンのように首周りにたてがみのような毛が生えている種類もいて、中国の一部では「東方神犬」と呼ばれているのである。


 体高こそ多摩川17地区のリーダーのボルゾイ、アレックスの方が高い。だが横幅はチベタン・マスティフの方がはるかに勝る。コイツがもし襲ってきたら、俺たちの戦力ではあっという間に食いちぎられて終わりだ。


「まあ、、今日はそのツラを見にきただけだけどな」


 その体格通りの野太い声でが話す。


「おっと、自己紹介がまだだったな。俺の名は、黒煙ヘイヤン。そのうち、お前たちを噛み殺す存在だ」

「……黒煙ヘイヤン、か。お主、どこの所属じゃ」

「所属だと? ハッ、それを俺に聞くか?」


 黒煙ヘイヤンはバカにしたような顔でソースを睨み、続けた。


「そうだな。少し前までは横浜20地区にいたが、今はどこにも属しておらん。まあ、お前たちにわかりやすく言うなら『魔王様の四天王』の1匹だ」


 体がブルリと震えた。魔王に関わるヤツが現れるたび、俺に襲いかかる悪寒。コイツが言っていることは、多分間違いない。

 こいつは確かに『魔王様の四天王』なのだ。


「まだ魔王様から攻撃命令は下されておらん。それどころか、今は手を出すなと言われておる。けどな」


 不意に黒煙ヘイヤンは全速力でこちらに猛然と駆けてきて、俺と賢者の目の前に立ちはだかった。


「俺としては、どうせ食い殺すなら、今でも一向に構わないんだがな!?」


 怖い。向かってきたのは全部見えていたのに、逃げようと思っていたのに、体がピクリとも動かない。ポメラニアンの体が、逃げられないと悟っているかのうように震えている。生物として、完全にビビっている。


「どうする? そっちの震えてるワンちゃんから食べてやろうか?」


 俺をギラリと睨む黒煙ヘイヤン。その口からは、よだれがダラリと垂れ下がっていた。まずい、これはまずい。逃げられない。


「グハハハ、まあ今は腹も減ってないしな。命拾いしたな、子犬ちゃん?」


 完全にナメられていた。気がつくと、サバトラはもうすでに逃げ出したのかどこにも姿が見えない。


「そうか。我の名はソース、賢者ソースだ。そしてコイツは、勇者モフ」

「勇者? 勇者だと? この震えてるワンちゃんが、勇者?」


 グハハハ、とチベット犬は野太い声で高笑いした。その笑い声だけで自分の全身の骨が震えているのがわかるほどの太く大きな声。

 情けないことに、俺の口からは一言も言葉が出なかった。


「ハーッ、ハーッ、笑いすぎて苦しいわ。まあ良いか、今晩は挨拶だけだからこのぐらいにしておくか。じゃ、またな。ブルブル勇者ちゃん。グハハハ!」


 チベット犬はくるりと向きを帰ると、のそりのそりと東京方面に歩き去っていった。

 俺は、気付かぬうちに失禁していた。俺の立っているあたりがすべて、俺の小便で湯気を立てていた。


「モフよ、あやつが魔王の四天王だ。そして魔王はきっと、あやつよりもずっと強い」


 俺はまだ顔も動かすこともできず、ただその場で賢者の言葉を聞いていた。


「でも、倒さねばならん。強くなって、お主が倒さねばならんのだ」


 ポメラニアンが、チベット犬を倒す……そんなこと不可能だ。絶対に、不可能だ。冗談じゃない。体格も風格も何もかも圧倒的に負けている。


「だからこそ、我らは一刻も早く徳川埋蔵金を掘り起こし、進化の秘宝を手に入れねばならんのだ」


 ◇◇◇


 東京に入り、チュン太が見つけてくれた寝ぐらは六郷橋の橋の下で、快適だった。だが、俺はその晩、一睡もできなかった。


 俺は弱い。弱すぎる。最弱ポメラニアンだ。戦ってもいないのに、チベット犬の黒煙ヘイヤンの存在に、俺はすっかり心が折れてしまっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る