16 使徒

 奥に見えるのがテレビ朝日の社屋で、正面玄関だ。この景色を見るのは20年ぶりくらいか。そして社屋の脇に、社屋の中にあるスタジオに繋がる大きな扉がある。そこにはトラックの搬入口があり、そこから入ると奥のスタジオに通じる美術倉庫が見えた。

 学生の頃の記憶だが、意外に覚えているもんだなと自分でも感心した。


「すご〜い、私テレビ局って初めて来たよ」

「ずいぶん古い時代の、だけどね。逆に管理が緩くて助かったよ」


 やはり寒風吹き荒ぶ外と屋内では気温がまったく違う。ほっとしながら俺たちは美術倉庫に入って行った。

 大きなベニヤ板の裏にカラフルなスタジオセットがたくさん立ち並んでいる。クイズ番組のセットが立ち並んでいるけど、見たことあるセットだな……あ!これは「クイズ!ヒントでピント」のセットだ!


 説明しよう。

「クイズ!ヒントでピント」とは男性軍と女性軍に分かれ、画面を使ったクイズを早押しで答えていくクイズ番組で、昭和54年から15年間も続いた人気番組である。


 そんな懐かし番組のセットが積み重なった倉庫を通り抜けていくが、深夜なのもあって人影はまったくない。

 俺はプーを誘導し、セットの影で犬小屋状に入り込めるスペースを見つけ出し、そこに座った。


「疲れたでしょ、プー。明るくなるまでここで休もう」

「うん、ありがとポメ」


 プーは俺のすぐ隣に来て、体を寄せ合わせて伏せた。

 おっと、積極的なレディだぜ。


「ごめんね、嫌かもだけど寒いから、ね」

「お、おう」


 子犬同士、寒くないように互いの体温で温め合う。なんの不思議もない合理的な行動だ。けど、心がおっさんのままの俺はかなりドギマギしてしまう。

 だってこのトイプードル、中身は女子大生だよ?既婚のおっさんが体を寄せ合って温め合う相手じゃないよ?


 なんて俺のヨコシマな考えを無視するかのように、プーは寝息を立て始めた。

 そりゃそうか。

 ペットショップからここまでは走り通し。距離は1キロ程度だろうが、子犬にとっては結構な距離だ。精神的にも疲れ果てたろう。

 なんだか俺一人がドギマギしているのが悲しくなった。


 彼女は自分の犬としての将来を悲観して、俺に助けを求めたんだ。俺が彼女を守ってやらなくてどうする。

 昔はともかく、今の俺はポメラニアンだ。オスだ。メス犬を助けてやるんだ。そのためにも、俺も少し休息を取らなくちゃ。この場所なら突然人間に見つかることもないだろう。もし人間が来たら、音を立てて入ってくるはずだしな。

 俺はそっと目を閉じた。


 だが、すぐに感じる違和感。

 俺は目を開け、立ち上がる。

 隣にくっついていたプーが一瞬「キュン」と声を立てるが、よほど疲れているのか起き上がる気配はない。

 一体、何の気配だ?見渡してみると……


 犬小屋状になっているスタジオセットの奥に、二つの光る点が見えた。色は金色。夜に車で走っていると、猫の目が光って金色に見えることがあるだろう?あれと同じ状態の光が見えた。あれは、何かの動物だ。


 思わず全身に身震いが走る。未知のものへの恐怖、それだけではない。何かわからない根源的な恐怖をその光から感じる。

 その光は少しずつ近づく。3メートル、2メートル、そして1メートル。

 そしてその姿が薄ぼんやりと見えてきた。その動物は……


「やあ、お隣さん。ずいぶん遠くまで逃げてくれたね。おかげで探すのにとても苦労したよ。フフフ……」


 見覚えのある、こげ茶色の4つ足の動物。見覚えはあるが、起きているのを見るのは初めてかもしれない。

 声を聞くのは初めてだが、その姿に似つかわしくないほど落ち着いた声色だ。

 それは、ペットショップで隣の部屋にいたミニチュアシュナウザーだった。


「お前は……いつも寝ていたシュナウザーか?」

「御名答。観察力は悪くないみたいだね、ポメくん」


 シュナウザーは右の眉をクイっとあげ、凄惨とも言える笑顔を見せた。


「お前、その喋り方……もしかして、元人間なのか?」

「人間だと? ハッ、そうか! お前も、元人間だったな。すっかり忘れてたよ、フフフ」


 こいつは何を言っているのだろう。話の内容が噛み合わないが、こいつが普通の子犬でないことは、今の会話の受け答えでわかる。

 だがシュナウザーが返してきた言葉は、俺には予想もつかない信じられない一言だった。


「私は『魔王の使徒』だ。単なる元人間は余計なことをせず、普通にペットとして一生を終えるが良い」


 この可愛らしいミニチュアシュナウザーの子犬が『魔王の使徒』だと……?

 ハッ、いきなりすぎてちょっと何言ってるかわかりませんが。

 心の中ではそう思い、実際に何かを言い返そうと思ったが、なぜか俺の体は硬直したように動かなかった。いや動かないのではない。正確には、小刻みに震えていた。一瞬寒さのせいかと思ったが、違う。


「どうしたポメくん。『魔王の使徒』と聞いて怖気付いたか?フフフ……」


 残念ながら、実際にそのようだ。『魔王の使徒』なんて言葉、ファンタジーかゲームでしか聞くような言葉ではないし、現実世界の会話で聞いたら頭がハテナマークでいっぱいになってしまうことだろう。

 それなのに、俺の体は震えが止まらなくなってしまったのだ。


「無理もない。お前が動物である以上、魔王様の威光に逆らうことなどできぬ。さあ、大人しくペットショップに戻るのだな」


 震えが止まらない。この恐怖は理屈ではない。幼い頃に田舎の祖父の家に遊びに行った時、夜に和式の古いトイレに向かう時に感じたような恐ろしさ。未知の暗闇への恐怖、幼い半端な知識で得た、得体の知れない物への畏怖。原始的な脅威。例えるならばそんなものだ。


 いつのまにか俺の尻尾は垂れ下がり、後ろ足の中に引っ込まれていた。俺の心というより、犬の体自身が恐れを感じているのだ。


 だが。

 俺は元・人間だ。体は恐怖していても、心はそれほど恐れていない。

 チラリとそばに寝ているトイプードルを見る。俺とシュナウザーの会話でもまだ起きる気配はなく、静かに胸を上下させ眠っている。


 俺は、この犬を守らなければならない。

 目の前の『魔王の使徒』と名乗るミニチュアシュナウザーから、そして『魔王』そのものから。


 よし、決めた。


「残念だったな、使徒くん。俺とプーは、今更ペットショップに戻る気なんてないんだよ。帰りたきゃ一人で帰りな」


 かっこ良く言ったつもりだったが、言葉はずっと震えていた。

 違うんだからね。俺が怖いんじゃなくて、ポメラニアンの体が怖がっているだけなんだからね。


「……フフフ。いいね、キミ。では、ちょっと痛い目を見てもらおうか」


 話が終わるのと同時に、ミニチュアシュナウザーが俺に飛びかかってきた。

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