15 逃走
俺たちはしばらく喜び合った後、ビルの隙間に入りこんだ。
移動する前に、まずは作戦会議が必要だ。
ここは酔っ払いが長年立ちションをしているようなニオイが立ち込めていて決して快適な環境ではないが、少なくとも寒風は防いでくれる。
脱出できた勢いとテンションが上がっていたことによる体温上昇で今まで感じなかったが、季節は冬、しかも深夜。まだ毛の短い幼犬二匹にはかなり厳しい寒さだ。
子犬がずっと外ですごしていたら、きっと体調を崩してしまうだろう。
「でさ、どこか行く当てはある?」
俺は今までに考えていた場所をプーに説明する。
「六本木は繁華街でありながら、ほんの一本裏に回ると真っ暗になるような街なんだ。脇道全て熟知しているとは言わないけど、まず何本か移動するルートを考えた」
「さすがだね。で、どこ行くの」
「うん。目的地として考えているところはとりあえず3箇所。とは言っても、とりあえず今夜を過ごす場所、と考えて欲しい」
「どうして?」
「これからずっと子犬二匹が生きていくには、少なくとも六本木近辺は厳しい。子犬がリードなしで歩いていたら、すぐに人間に捕まっちゃうしね」
なるほどね、とプーは頷く。そして先を促すようにこちらを見つめる。
「第一候補は、氷川神社だ。これは赤坂にある大きな神社で、夜は人通りがほとんどない。本殿の階段の下とかに潜り込めば、万が一雨や雪が降っても凌げるし、樹木もたくさんあるからいざという時に逃げやすい」
「神社か……」
あれ、おかしいな。俺のイチオシなのにプーの反応が薄い。
「そして最大のメリットなんだけど、ここからほぼ道路一本でたどり着くことができるんだ。距離的にも一番オススメだよ」
「そうなんだ。ふーん。そこはやめとこ。で、次は?」
「ちょっとプーさん!酷くない?なんで神社はダメなんだよ?」
プーはキッと怒ったように俺を見た後、ぼそりと言った。
「……んだもん……」
「うん?何て言った?」
「夜の神社は怖いんだもん、って言ったの!!」
ワンワワンワン! すごい剣幕だ。
なるほどね、プーさんも普通の女の子、夜の神社はお化けが出そうで怖いのか。
お化けが出そうなのは、普通お墓があるお寺なんだけどね。
「了解了解。じゃ、神社はやめとこう。第二候補だ。ここは少し遠いけど、まず人が来ることはないし、朝になってもあまり人通りがないから明日の移動も便利だ」
「良さげなところ知ってるんじゃん。で、どこ?」
「青山霊園っていう……」
「却下!!!」
バウバウ! さっきより勢いのある吠え声だ。
やっぱりダメか。
隠れるにはもってこいな場所なんだけどな。
「つぎに変なこと言ったら、マジで噛みつくから!」
「わかったわかった。じゃ、第三候補。ニッカ池」
「ニッカ池?何それ」
説明しよう。
ニッカ池とはこの当時、六本木のテレビ朝日にあった池のことである。
元は毛利屋敷にあった池と言われ、さんまのなんでもダービーなど、数々の番組でも使われた有名な池なのである。
「なんでその池を選んだの?」
「理由は3つ。大きな道を二つ渡る必要があるけど、直線距離は比較的ここから近いこと。樹木や茂みが多くて隠れやすいこと。そしてテレビ朝日の美術倉庫があるから、運が良ければ室内で寝ることができることだ」
「美術倉庫って、なあに?絵でも管理してるの?」
「あのね、美術っていうのは絵のことじゃないんだ。映画業界やテレビ業界で、大道具や小道具、衣装とか小物とか、撮影で使ういろんな道具があるだろ?あれのことをひとまとめにして美術って呼ぶんだ」
「へええ、そうなんだ。でもなんでそんなに詳しいの?」
「昔、テレビ朝日でバイトしてたんだ」
学生時代、先輩の紹介でテレビ朝日関連のアルバイトを何度か手伝ったことがあった。
クイズ番組の回答者の役をやったり、六本木で番組のアンケートをとったり、大道具さんのお手伝いをしたり。たまに芸能人と会えて、とても楽しいバイトだった記憶がある。その代わり、バイト代はいつも雀の涙だったけど。
「美術さんはこの時代、結構管理がルーズなとこもあってさ。テレビ局だから夜中でも仕事があったりするじゃない?だから美術倉庫が開いてるんじゃないかなって思ってさ」
「なるほど、室内だったら寒くないよね。うん、そこにしよう!」
行先は決まった。
まずはこの場所から大きな道路、六本木通りを横断しなければ。
俺とプーはビルの隙間から抜け出し、裏道を歩く。
さっき警備員室で最後に時計を見た時、時間はたしか1時頃だった。
あれから30分くらい経ったとして、今は2時前といったところか。
だがさすがバブル時代の年末。派手な原色のボディコンを着た女の人や、グリーンやパープル、スカイブルーなどのカラフルなダブルスーツを着た男がたくさん闊歩している。
しかもタクシーの台数も半端ではない。
考えると、この時代の日本は輝いていたな。
貿ハワイのビルやニューヨークのトランプタワー買い占め、ソニーのCBSレコードや映画会社の買収。自動車がアメリカで爆売れで、貿易摩擦が起こってアメリカが激おこになってたっけ。
でも、世界中が日本に注目していた時代だったと思う。
衰退した令和時代の日本からは考えられない時代だった。
だがこの日に限っていうと、人の多さは俺たちに決してプラスではなかった。
俺たちは物陰を伝ってにこそこそと移動し、六本木通りの車の流れが途切れるのを待つ。
だが、いつまで経っても車列が途切れることはない。
「これじゃ道路渡れないよ。どうする?」
「仕方ない。横断歩道を全力で渡っちゃおう」
俺たちがいるのは、六本木交差点の俳優座近く。
まずは六本木通りを渡って反対側に行き、さらに外苑東通りを渡ってアマンド方向に移動しなければならない。
目指すニッカ池、テレビ朝日はさらに奥、青山ブックセンター方向だ。
「プー、行けそう?」
「多分大丈夫。こう見えても中学時代、1500mで学年100位に入ったことあるし」
100位って、速いのか? 学年が男女200人いるとしても最低クラスでは?
「ふふ。大丈夫だって。今は犬だからきっと走れるよ!」
相変わらず、すっげーポジティブな子だこと。ま、信じてみようか。
かくいう俺は、学生時代は運動が苦手だった。
結婚して子供が生まれた頃、運動不足が祟ってぎっくり腰になったあと、一念発起して毎日ジョギングし、勢いに乗ってその翌年、マラソンを完走したことがある。
完走といってもその実は「完歩」とも言えるが、そこそこ走るのには自信がある。
それに今は犬だし、きっと大丈夫。
俺たちは六本木駅の地下鉄6番出口の影に隠れつつ、信号のタイミングを測る。
狙い目は、横断歩道が点滅し、赤に変わる直前のタイミングだ。
六本木通りを渡りきると、まもなく交差するアマンド方向への横断歩道も青になる。
それも止まらずに一気に渡りきる。
人目につくのは諦め、止まらずに一気に二つの大通りを渡ってしまうというプランだ。
横断歩道の点滅が始まる。
一回、二回、三回、四回。
「今だプー。いくぞ!」
「はいっ!」
横断歩道へと飛び出す白いポメラニアンと、アプリコットのトイプードル。
酔っ払って横断歩道を歩くバブリー男女が「おい、犬だぜ!」とか騒ぐが、構やしない。
横断歩道を渡りきる前に横断歩道は赤に変わる。
俺たちは一旦スピードを落とし、次に目指すアマンドを見つめる。
「はえー。六本木ってすっごいね」
「プーは来たことないの?」
「六本木は初めて。渋谷は友達と行ったことあるけど」
まるで会話しているような子犬たちを珍しそうに眺めるカップルや、ちょっと非合法なニオイがするおじさんたち。
この頃は外国人の姿も、令和の世ほどはいない。
そして外苑東通りを渡る横断歩道が青に変わった。
再び駆け出す俺たち二匹。
アマンドを過ぎたところで、俺はあることに気づいて慌ててストップする。
「ちょっと待った!やっぱりこの道、無し!」
「どうして?」
「このまま行くと麻布警察署がある。野良犬がいたら外の警備警官に捕まるかも」
「それはヤバいね」
「付いてきて」
俺はアマンド前で右に曲がり、坂道を下っていく。芋洗坂だ。
この道は通の人しか通らない道だ。六本木通りや外苑東通りほどの人手はない。
100メートルも進まないうちに、また右に曲がる。ここは六本木通りの裏道。店はたくさんがあるが、人通りは少ない。
なかなか順調だ。
走っていると俺たちの姿を見かけた人は一瞬ギョッとするが、俺たちの姿は怖いというより、子犬が微笑ましくチョコチョコ走っているだけだ。
なぜ子犬が?と疑問を感じるものの、わざわざ捕まえたりしようとする人はいない。
麻布警察署の裏を過ぎ、六本木WAVEの裏手を過ぎると、俺が目指していた道、通称テレビ朝日通りだ。
ゴールはもうすぐだが、流石に疲れてきた。
テレ朝通りに入り、俺はスピードを落とす。
「はぁ、はぁ……流石に、ちょっと、疲れたな」
「ふう、うん、確かに、ゆっくり歩きたい」
いくら走るのに長けた犬とはいえ、俺たちは子犬。
400メートル近く走り、すっかりクタクタだ。
テレビ朝日通りをゆっくり歩いていると、テレビ朝日が見えてきた。
「ここが、テレビ朝日?」
「そう。懐かしいな」
「令和時代はどこにあるの?なんかテレビで見たことあるけど」
「今は六本木ヒルズの横だよ」
そんなことを話しながら、俺たちはテレビ朝日の敷地に入る。
警備員はどこかにいるだろうが、今は深夜。
この時代はどこの会社もそれほどセキュリティが高くはない。案の定、テレビ朝日の敷地にも容易に潜入できた。
「あ、池だ! これがニッカ池?」
「そう。これまた懐かしいなー」
「あそこになんか石碑あるよ。見に行かない?」
「ん?いいけど、やめといた方がいいかもよ」
「どうして?」
「秘密でーす」
危ない危ない。
確かあの石碑は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士が切腹した場所だったよな。
そんなのプーにバレたら、激おこぷんぷん丸になってしまうだろう。ま、今どきそんな表現使うヤツはいないけどね。
プーが胡乱な目で俺を睨んでいる。
「あ、あっちが美術倉庫だ。やっぱ開いてるよ」
俺は誤魔化すように美術倉庫へと駆け出した。
「ちょっと待ってよー」
万事順調。
ここで一晩過ごして、明日はもっと遠くに逃げよう。
意外にうまくいくもんだね。
この時間まで、俺は確かにそう思っていた。
この後に待ち受けていた悲劇のことなど想像もできずに。
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