14 脱出

 昼間に見た時と違い、夜中のビルの廊下は電気が消され、薄暗かった。

 奥に見えるガラス戸がビルの外への出入り口。もちろん鍵がかかっている。

 その左手前には警備員室で、灯りが漏れている。

 ここからは見えないが、警備員は当然いるはずだ。

 俺とプーはとりあえず廊下にあった消化器の影に身を潜めて様子を伺う。


「警備員の横にスイッチがあるんだっけ?」

「そう。あれを押せばドアノブが自動的に回るはずだ」


 問題は、どうやってそのスイッチを押すか、だ。

 俺はプーに待っているように指示すると、抜き足差し足忍び足、少しずつ警備員室に近づいてみる。


 いた。

 警備員が席に座っている。

 昼の警備員と違うゴツい人が俯いて何かを見ている。

 若干眠そうにも見える。

 警備員に見つからないように隠れたり、そっと覗いたりを繰り返していると、警備員は何かをめくるような仕草をした。

 たぶん本でも読んでいるのだろう。


 俺は一旦、プーの待つ消火器の影に戻る。


「警備員は本を読んでる。眠そうだったけど、しばらく寝そうな感じはなかった」

「うーん、厳しいよね」


 何か警備員の気を逸らす方法はないものか。

 例えば一匹が囮となって、もう一匹がその隙にスイッチを押すとか。

 いやダメだ。二匹同時に逃げないと意味がない。

 プーだけ逃げてもらう手もあるにはあるが、彼女は六本木の街を知らない。

 街中で迷ってしまっては、すぐに人間に捕まってしまうだろう。

 もちろん、俺だけが逃げるという選択肢はまったくない。

 プーが「逃げ出そう」と提案したのだ。最悪でも彼女には逃げ出してもらわなければ。


 互いに様々な計画を出し合うが、どれも結論は出ない。

 幸運に頼るプランとしては、警備員が寝てしまうのを待つという手があるが、これは消極的かつ偶然性に頼り切りになってしまう。

 あの警備員がどれだけ真面目なのか、職務に忠実なのか。そんなことわかるはずもない。

 廊下に時計がないため、いま何時頃なのか全くわからない。

 バックルームに戻って見てくることもできるが、その隙にチャンスがあったら取り返しがつかない。

 こうして、ジリジリと時だけが過ぎていった。


 ふと見ると、プーが目を細めている。

 続いて体を揺らし、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。

 ここまでにも結構体力を使ったのだ、無理もない。


 チーン!

 いきなり、廊下に甲高いチャイム音が響き渡った。心臓が止まるかと思った。

 プーも小さく「キャン!」と声を出して目を覚ました。


「今のなに?」

「わかんない。えっと……」


 次の瞬間、外に出るドアの反対側にあるエレベーターの扉がガタガタと音を立てて開き、誰かがこちらに歩いてくる。

 ヤバい。警備員に見えないような角度で消化器に隠れているのだが、エレベーターから歩いてくる人には丸見えになってしまう。


「逃げよっ」

「待った!」


 俺は駆け出そうとしていたプーの尻尾を噛んで動きを止め、こそこそ声でプーに囁く。


「廊下は暗い。動かない方が見つからない」


 プーは彫像のように動きを止めた。俺もプーの尻尾を噛んだまま、固まる。


 エレベーターから降りてきた人物が少しずつ、俺たちに近づく。

 頼む、気づかないでくれ。

 カツ、カツ、カツ。

 革靴の音が俺たちのいる消火器まで限界まで近づくと……そのまま通り過ぎた。

 ピクリとも動かないまま、ホッと胸を撫で下ろす。


 その人は警備員室の前に立ち、警備員に声をかけた。

「お疲れ様です。3階のトッププランニングです。鍵返却します」

「今日は遅かったですね。お疲れ様でした」

「お疲れです」


 ピーッ、カチャ。

 警備員がスイッチを押したのか、ロックが解除される。

 エレベーターから降りてきた3階の人はそのまま外に出ていった。

 ドアが自動的に戻ると、ジーッ、カチャッという音と共に、ロックが自動的に閉まる。


 マジ焦った。まだ心臓がドキドキしてる。

 鼓動が収まりつつある心臓は次の瞬間、再びドキリと音を立てる。


「やっと帰ったかぁ。さ、休憩休憩」

 警備員の大声が廊下に響いた。本当、心臓に悪い。

 警備員室からしばらく衣擦れの音が聞こえていたが、数分後、大きな地響きのようなイビキの音が聞こえてきた。

 よし、チャンスだ。


 俺たちは警備寝室に近づき、ドアの隙間からこっそり侵入した。

 狭い部屋の奥にあるソファでは、毛布を被った警備員がいびきを掻いている。

 目指すは警備員室の壁にあるスイッチだ。


 俺は椅子に飛び乗ると、その勢いのままカウンターに飛び乗る。今度はうまく登れた。

 登った先には、日本で一番売れている週刊漫画雑誌。その表紙は世紀末の覇者だった。なんだか懐かしいな。


「じゃ、押すよ。何秒か経つと自動的に鍵が閉まるかもしれないから、プーはドアの近くにいて。鍵が開いたら全力でドアを開けて」

「わかった、準備できたら呼ぶね」


 プーが警備員室から出て行き、すぐに「ワン!」という声が聞こえる。

 よし、ドア開閉スイッチ、ポチッとな。


 ジーッ。音がしてドアのサムターンが回るのが見える。

 俺は急いでカウンターから椅子を経由し、警備員室を出る。

 ドアのそばには、全力でドアを押しているプーの姿があった。


「ちょっ、思ったより、ずっと重い……」

「手伝う!」

 二匹で外開きのドアを、全力で押す。

 廊下に肉球と短い爪を食い込ませ、力の限りドアを押す。

 ジリ、ジリ、ジリ。

 カタツムリの歩みのように緩やかに、ドアが開いていく。

 5センチほど開いたところで、俺は右前足を差し込む。


「プー、体をドアに挟み込ませて!」

「わかった!」

 プーが体をドアに滑り込ませる。

 さらにドアが少しずつ開いていく。


 今度は俺が、プーの体の上側に体を滑り込ませる。

 俺の方が少しだけ体が大きいらしく、ドアに挟まれていたプーの体が圧力から解放され、外に出た。

 それを見た俺は、素早く外に抜け出す。


 ゴンゴーン。ドアの閉まる音。

 続いて、サムターンが自動的に閉まる音がした。


 少しの間、俺たちは呆然としていた。

「やった……やったね!」

「うん、脱出成功だ!やったなプー」

「さすがポメ!」


 俺たち二匹はまるで渦を巻くように、互いの尻を追い回してクルクルと回った。

 特に意識はしていなかったが、この動きが犬の本能的に喜びを表す動きらしい。

 俺たちの逃避行はまだこれからだが、今だけはこの喜びを共有したいと思う。

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