13 肉球

 夜11時を過ぎ、この日は猫田さんではなく犬飼店長が最後まで残って仕事をしていたが、やがてバックルームに鍵をかけて帰って行った。


 バックルームの明かりは消され、非常口の緑の光だけが室内を薄く照らす。

 2枚もドアを隔てているのに、バブル期の六本木の喧騒は室内まで届いていた。

 柴ちゃんをはじめとした数匹の犬がワンキャン鳴いていたが、じきにみんなスヤスヤと眠りについたらしく、室内は遠くに聞こえるクラクションの音だけが薄く響く。


「さてプーさん。では、計画を実行しようか」

「オッケー、ポメ。それにしてもラッキーだったね、私の檻」


 俺たちは昨日まで、三段重ねの檻の一番上の段の檻に入れられていた。

 でも今日は俺が何度も倒れたから、出し入れを安全にするためなのか、一番下の檻に入れられた。そして隣はプーだ。

 そのプーが入れられた檻こそ、元柴犬の柴ちゃんが脱走した檻。

 つまり不良品の檻だとプーが教えてくれたのだ。


「じゃ、始めるね」


 プーは体に力を入れるように体を縮める仕草を見せ、次の瞬間、ケージのドアに向かって突進した。

 ガシャン!

 思った以上に大きな音がしてちょっとビックリ。

 他の犬も今の音で眠りを覚まされたのか、数匹がものすごい勢いで吠え出す。


「プー、ちょっとヤバいんじゃない?」

「大丈夫、計画通り」


 プーは俺を見て天才高校生のような悪そうな表情でニヤリとしたあと、再びケージのドアに突進した。

 ガッシャン!さっきより大きな音がするが、犬たちの吠える声に紛れ、それほど目立ちにくくなった。なるほどな、吠え声で衝突音を隠す計画だと。


 プーは3度、4度とドアに突進する。

 7度目のガシャンという音と共に、プーのケージの扉がゆらりと揺れる。

 成功だ。

 プーは悠々とドアの外に出ると、隣の俺のケージに右足を当てる。

 そのまま足を上にずらして、俺のケージの扉を開けた。

 よし、これで二匹ともケージから出られた。

 第一関門はクリアだ。


「おいお前。俺に餌をよこせ」


 突然の声に思わずビクリとして見ると、黒白のチワワが二階部分のケージから俺を睥睨している。

 例のいじめっ子犬だ。口調と比べ声が甲高いのが玉に瑕だが。


「今すぐお前の餌をよこせ。お前の餌は俺のものだ。よこさないと、ヒドイぞ」

「いじめっ子は無視だな。さ、次はバックルームのドアを開けよう」

「オッケー、ポメ」


 ワンワン吠えるチワワを無視すると、俺たちは店長のデスクのそばにある椅子を目指す。

 椅子のそばにはドッグフードの大きな袋が積んであるので、それに登った後、椅子へ飛び移る。そのまま机の上によじ登ろうとしたが、ちょっと高さが足りなくて容易には登れそうにない。


「プー、俺が下になるから俺の背中から机に乗って鍵を開けて」

「ありがと、ポメ」


 俺の背中に登ったプーは、その勢いのままデスクに飛び移る。

 なかなか子犬なのに運動神経が良く、見事成功だ。


「サムターンは回せそうか?」

「大丈夫、回る方向も確認済みだよ」


 プーはドアノブに右前足を伸ばすと、サムターンのノブに足をかけ、器用にくるりとノブを回した。

 カチャン、と小気味良い音が鳴り、鍵が開く。


「やった!鍵が開いたよ」

「さすがプーちゃん、やるねぇ!」


 俺は椅子から飛び降り、ドアへと向かう。だがここで俺とプーは、ある見落としに気がついた。

 ドアの鍵を開けたはいいが、ドアノブを捻らないとドアは開かない。当たり前のことだが、まだ人間の感覚が残っているらしい。

 人間だったらドアノブをひょいと捻るだけでドアを開けられるが、犬には困難だ。


「ポメ、わたしちょっと試してみる」


 プーは両前足を伸ばすと、右足と左足でドアノブを挟んだ。

 そして両足の肉球でドアノブを回そうとする。


「よいしょっ……あっダメだ、肉球滑っちゃう」

 肉球には衝撃を吸収する役割があるが、摩擦力という点では心許ない。強い力で挟まないとドアノブの上を滑ってしまう。非力な子犬の力ではドアノブを回すことができない。


「俺も手伝う。ちょっと待ってて」

「お願い!」


 俺は再び椅子に飛び乗ったが、今度は一匹でデスクに登らなければならない。

 椅子の上でギリギリまで後ろに下がり、勢いをつけてデスクに飛び乗る。

 だが、体の半分くらいしかデスクの上に乗ることができない。


 するとプーは俺の元に駆け寄るやいなや、俺の右前足をガブリと噛んだ。

「イテテテテ!」

「ワワンワワ!」

 多分「我慢して!」とでも言ったのだろうか。彼女の意図はわかったので、痛みを堪える。

 プーは必死な形相で俺の右足を引っ張る。ジリジリと体が机の上に引っ張られる。

 やがて俺の左後ろ足がデスクの角にひっかかると、俺は勢いよく左足を蹴ってデスクの上に転がり登った。


「はぁ、はぁ。助かったよ、プー」

「ポメちゃん、運動神経あまり良くないね」

「ハァ、ハァ……いや、まだ子犬だから」

「私もだよ! さ、まだまだこれからだよ。一緒に右に回すからね」


 俺たち二匹はドアノブを前足で抑える。二匹の両前足、4つの足の裏の肉球を使い、摩擦力でドアノブを回すのだ。

 せーの、の掛け声で同時に足に力を込める。

 いくら非力な子犬だからといって、二匹いればなんとかなるもんだ。

 最初ピクリとも動かなかったドアノブが、突然スルリと右に回った。

 カチャッ。音が鳴り、ドアがゆっくりと外側に開く。

 慌てて俺たちはドアノブから足を離す。


「やったね、ポメ!」

「第二関門突破だ!」


 あとはこのビルから脱出するだけ。

 俺たちは最後のドアが待つビルの廊下へと駆け出した。

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