12 下見
夢を見ていた。
俺が毎日幸せだった頃。子供が産まれ、仕事は忙しいなりに充実し、妻と仲良くしていた時の夢。
妻との甘い時間。互いに笑いながらキスをする。俺からも、彼女からも。
俺がキスをやめても、彼女は俺にキスをねだる。
何度も、何度も、何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も……ちょ待てよ、キスし過ぎだろ。
なんだかおかしいぞ。そう思って俺は目を開けた。
そこには、俺の顔をペロペロと舐めるプーの姿があった。
「あ、気がついた?よかったー。倒れた後しばらく震えていたし、死んじゃったかと思ったよ」
「……ここは?」
「バックルームのケージ。ついさっきここに運ばれてきたんだよ」
プーはケージの檻越しに、俺を舐めていてくれたようだ。
俺は起き上がって、体をブルブルと震わせる。
「ごめん、迷惑かけちゃったみたい」
「いいよ。でもビックリしたー。いきなりウンチを始めたかと思ったら、しばらくしてウンチポーズのままで頭からぶっ倒れるんだもん。見ててヤバかったよ」
確かに、右目の上あたりがすこしズキズキする。
踏ん張り過ぎて貧血起こしちゃったんだろうな。うーん、我ながら情けない。
人間時代は基本健康体だったんだけどな。今は幼犬だし、無理は禁物なのかもね。
あれ?そう言えば。
さっきプーさんたら、俺のことペロペロしてなかったっけ?
「プー、さっきはありがとう。ペロペロ、気持ちよかったよ」
いかん。妻との変な夢を見ていただけに、少しセクハラ気味な言動になっている。
するとプーは。
「ちょっ……ば、バカなこと言わないでよね!犬だから本能で舐めただけで、あんたのことなんか何とも思ってないんだから!」
なんだかツンデレの古いテンプレみたいなことを言うプー。
そうか、犬は心配すると本能で舐めちゃうんだ、ふううん。
そんなことを言おうかと思ったが、怒らせても意味がないのでやめとこう。
「ごめんごめん、深い意味はないよ。ほんと感謝してる」
「わ、わかればいいのよ。フン!」
ツンデレテンプレートは継続中のようだ。
と、そこで檻の前に女性がヌッと現れた。店員の猫田さんだ。
「ポメちゃん、今日は災難だったね〜」
言葉とは裏腹に、なんだか嬉しそうな表情だ。なんで?俺が倒れたのが嬉しかったの?サイコパスなの?
すると、猫田さんの顔にある感情が浮かんだ。
――ポメちゃんのおかげで髭田先生が来たからラッキー!――
髭田先生?誰だそりゃ。俺は小声でプーに尋ねる。
「プー。髭田先生って誰だか知ってる?」
「髭田? ……あ、多分あの人だ。ポメが倒れたあと、しばらくして白衣の人が来て、あんたを聴診器で診てた。多分動物病院の先生じゃないかな」
なるほど、俺がぶっ倒れたのを心配して獣医に診せたってことか。
んで、独身彼氏ナシの猫田さんは髭田先生に憧れてる、と。なるほどね。
俺は猫田さんを再び見る。
「ポメちゃん、明日は大丈夫かな〜?」
――明日も倒れてくれたら髭田先生呼べるんだけどな〜――
ちょっと猫田さん、ヒドくない?ペットショップの店員さんが自分のとこの商品に向かって「倒れてくれたら」って……うん?
ここで俺は、ふと閃いた。
髭田先生は当然、店の外からやってくるよね。先生はたぶん、営業中の店の入り口からではなく、店のバックルームのドアから出入りするよね。
そして猫田さんの態度からして、先生のお出迎えとかお見送りとかするよね。
ということは、もしかして、外のドアのことも考えたりするんじゃないか?
思いつきはすぐに実行してみよう。
さっきは失敗しちゃったけど、時間とチャンスは無限に訪れるわけではない。
俺はフラフラと体を揺らせると「キュ〜ん」と言いながらゆっくり倒れる演技をした。自分でも大根役者の演技だと思ったが、そもそも犬なのでバレないだろう。
薄目を開けて猫田さんを見ると、俺の大根演技が効いているようだ。
「ポメちゃん?? 大変! 先生呼ばなきゃ。てんちょー大変、ポメちゃんまた倒れちゃったから髭田先生呼ぶね」
遠くから犬飼店長の声が聞こえる。
「またかよ!虚弱な犬だなー、騙されたよ。早く売っぱらわないと」
なんだか酷いこと言ってる。やばい、やり過ぎたか?
「プー、どうしたの?? 大丈夫?」
「シーッ。倒れたフリだから心配しないで」
「え、倒れたフリ? なんで??」
30分後、猫田さんがバックルームでソワソワし始める。
するとドアにノックの音がして、白衣の男が入ってきた。
「せんせ〜! すみません何度も。またポメちゃんが倒れちゃったんです」
「おうおう、またか。弱っちい子犬だなぁ。ブリーダーに戻しちゃったらどう?」
先生も何気に酷いこと言うなぁ。アンタそれでも獣医かよ。
まあバブル期だし、儲からないことは良しとされない時代だもんな。
髭田先生は、その名にそぐわないほどのイケメンだった。
長めの髪を半分に分け、きっちり整髪料で整えてある。だが無香料ではないらしく、ムスクの香りが犬の嗅覚に刺激的なニオイとなって突き刺さる。
なんだコイツ、本当に獣医かよ。こんな強いニオイさせて犬に対するなんておかしいんじゃないか?
でもそんなイケメンの姿を見て、猫田さんはご機嫌だ。
ケージから俺を出し、ドアのすぐ横にある店長のデスクを診察台の代わりにして俺を横たえる。
しめた。俺は薄目を開け、チラリとバックルームのドアの鍵を確認。
プーが柴ちゃんの記憶で見たという鍵、それは昭和にふさわしく、ちゃっちいサムターン錠だった。これなら俺でも開けられそうだ。というか、今は開いてるはず。
もしかして、チャンスかも。
髭田先生はドクターバッグから聴診器を出し、横たわった俺の心臓あたりに聴診器を当てる。ひゃっ、冷たい!聴診器の冷たさに一瞬体がビクッと反応してしまったが、ガマンガマン。
「うん、心臓は特に問題なさそうだけど。多分疲れがあるんじゃないかな?ちょっと寝かせておけば大丈夫だと思うよ」
おいおい、そんなテキトーな診断ありかよ。もっとこう、ちゃんとした検査とかないのかね。
「そうですか!ありがとうございます、先生!」
「僕はちょっと忙しいから、これで失礼するね。あ、診察料は2回分、請求書で送るから」
これだけで終わりか。せんせ、ボロ儲けだな。結構なカネ、取るんだろうな。
髭田先生はそそくさと聴診器をバッグに片付ける。
俺がチラリと時計を横目で見ると、時間は夕方5時ちょうど。
なるほど、今日のお仕事は終わりってか。1分も残業したくないってか。
「ほんとにありがとうございました。また何かあったら呼びますね!」
「まあ心配ないと思うけど、もう一回倒れたら本当にブリーダーさんに文句言って返金してもらった方がいいと思うよ」
言いながら髭田先生はドアを開ける。
今だ!
俺は机の上で飛び起きると、そばにあった椅子に飛び降り、その勢いのまま床に降りる。そして薄く開いたドアを目掛けまっしぐらに掛け出す。
「あっ、ポメちゃん!どこ行くの」
どこって、このビルのドアを見に行くのさ。
猫田さんの声を振り切り、俺は全力で走る。
バックルームの外には、短いビル内の廊下があった。
ドアを出て右側に小さなエレベーター。左の奥に、ガラス製の外に通じるドアが見えた。
ドアの左側には受付のようなものが見える。たぶん警備員室だ。
ドアまで全力で走る俺。
ドアの下に辿り着き、鍵を見てみると。
サムターン錠だったが、バックルームとは違って結構丈夫そうな鍵がある。
しかもバックルームと違い、鍵の横にテーブルや机などはない。
つまり、俺やプーの手では開けることができなそうだ。
そこまで確認したところで、俺はフッと宙に抱え上げられた。
「ダメじゃないポメちゃん、逃げ出したら」
猫田さんに抱き抱えられ、腕でしっかりとホールドされる。
その時、俺は警備員室の中をチラリと確認した。
厳つい警備員が座っている。そしてその横に、何かのボタンが見える。
ボタンの下には「ドア開閉」の文字。
なるほど、このボタンを押せばドアの鍵が自動的に開く仕組みのパターンだな。
これならボタンさえ押すことができれば、外に逃げ出せる。
猫田さんにメッ!とか優しく叱られながら、ケージへと戻される俺。
髭田先生はいつの間にか姿を消していた。
「ポメ、もしかして下見してきたの?」
心配そうな顔をしたプーが話しかけてきた。
話が早い。頭のいいワンちゃんは嫌いじゃないぜ?
「うん。廊下にさえ出られたら、あとはタイミングでなんとかなりそうだ」
「マジで?やるじゃんポメ!」
あとは実行の時を待つだけだ。
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