11 粗相

 そこまで話したところで、俺もプーも運動場から店の窓際、昨日もいたアクリルケースに移動させられた。

 基本、俺たち犬を運んだり世話をしたりするのは猫田さんの役目。

 犬飼店長はレジ周りとか事務仕事が多いようだ。

 狙い目は猫田さんか。


 店内を忙しそうに動く猫田さん。

 客の応対をする合間、ペットシーツを取り替えたり餌を入れ替えたり水を入れ替えたり、ペットショップの店員はじっとしていることがほとんどない。これは結構なハードワークだな。犬好き猫好き、っていうだけじゃ務まらなそうだ。


 俺は動き回る猫田さんに、じっと視線を集中させる。

 人間の心を読むことができるようになったのは、ほんの昨日の話。

 昨日は突然、店のお客さんの言葉がその顔に重なって聞こえたが、今やっているように対象人物をじっと見つめることが正しいのかはわからない。


 視線を強め、眉根を寄せる。猫田さんを睨む。

 すると微かだが、声が聞こえてきたように感じる。

 さらに意識を彼女の顔に集中する。


 ――…しい……変……りたい――


 なんだろう、よく聞こえない。

 ポメラニアンに可能な限りの睨みの表情で、俺はより深く彼女の意識に潜り込むイメージを強める。


 ――ああ忙しい。もう大変。早く帰りたい――


 単なる仕事の愚痴かよ。

 少しがっくりしたが、とにかく初めて自分の意思で人間の心を読むことができた。


 今度はじっくりと考える。

 ペットショップのドアから脱出した後、ビルから脱出する方法。そのヒントになるようなことを彼女に思い起こさせるには、一体どうすればいい?

 なんらかのアクションを起こし、猫田さんにビルから出るドアを想像させる。そうすれば良いとは考えつくものの、いったいどうやって?


 人間に対し、ポメラニアンが能動的に働きかけられることには限りがある。吠えるか、じゃれつくか、わざと粗相をして注意を引くか、そのどれかしかないだろう。

 一つずつ考えてみるか。


 まず「吠える」これはどうなんだろう。

 俺はポメラニアンだが中身は人間。今まで人間に吠えたことはない。少なくとも人間の記憶が蘇ってからは一度もないことを記憶している。

 仮に、猫田さんに吠えるとしよう。多分、なんの注意もひかない。

 だって俺以外の犬、特にあのアホ犬柴ちゃん、あいつは10秒に一回くらい吠えている。

 面倒なので今まで聞こえないふりをしていたが、今朝からあいつの「ねえ知ってる?」は軽く100回以上聞こえているからだ。

 つまり、俺が数回吠えたところでなんの効果もないだろう。


 次に「じゃれつく」これも効果は薄いと思われる。

 そもそも猫田さんが俺のじゃれつく範囲に寄ってこない。チャンスをじっくり待ったとして、仮に猫田さんにじゃれつくのを成功させたと仮定しよう。猫田さんは「どうしたのポメちゃん、甘えてるの?」みたいなことを言って、はいサヨナラだろう。

 いくら俺がプリチーな幼犬だとしても、この店は幼犬だらけ。せっかくの俺の可愛さも多分無意味だ。


 最後に「わざと粗相をする」これはどうなんだろう。

 粗相には小さい方と大きい方があるが、仮に小さい方を粗相したとしよう。

 他の犬の状況を見るに、しばらくは放っておかれる。猫田さんが忙しすぎるのだ。

 猫田さんの手が空いているとして、俺の粗相に気づいたとする。彼女は手早くペットシーツを交換し、それでお終い。うん、これも意味がない。

 そして大きい方を粗相したら、気づいた時にすぐにシーツ交換だろう。


 早くもプランすべてが詰んだ。俺のスキル、あんまり意味なくないか?偶然性に頼るしか方法がないなんてスキルとして終わっている。


「ポメ。なんか考えついた?」


 アクリル板越しにプーが話しかけてきた。


「ムズいな。猫田さん、忙しいと帰りたいしか考えてない」

「そっか、人間の普段の考えなんてそんなもんかもね」

「ちょっとアイデアが欲しいんだけど、猫田さんに外のドアを想像させる方法ないかな?」

「うーん。……難しいね、それ」


 アクリル板越しに、二匹の幼犬が眉根を寄せながら唸る。

 しばらく思いつきを語り合ったが、画期的な方法は一つも浮かばない。

 じりじりと時間だけが過ぎていく。


 時間はまもなく午後1時。

 しばらく店内にいなかった猫田さんが、バックルームから戻ってきた。

 おや?と俺は猫田さんの姿を追う。

 先ほどまでの忙しい、帰りたいモードの表情ではなくなっている。どうした猫田さん、何かあったのか?

 俺は猫田さんの顔に意識を集中した。


 ――もうすぐ昼休み〜。今日はシシリアでイタメシにしよっと!――


 説明しよう。

 イタメシとは「イタリアの飯」の意味で。1980年代イタリア料理がおしゃれだとして流行した時代に呼ばれた俗称のことである。

 ちなみにシシリアとは六本木に令和の世にも存在する老舗イタリアンの名前で、特に「仔牛のカツレツ ガーリックソースバターソース」は絶品である。


 なるほど、もうすぐランチということか。そりゃご機嫌にもなるわな。

 ん、待てよ。こんなプランはどうだろう。

 猫田さんがランチに行こうとするタイミングで、俺が大きい方を粗相する。多分彼女は俺の粗相を先に片付けようとするが、心はすでにランチモード。外に行くことを考え、その時にビルのドアのことも想像する。

 そうなってくれるとベストだが、この計画も穴だらけだな……


 でもプーがさっき俺に言っていたように「とくかく試してみる」ことをしないと何も始まらない。

 可能性は薄くともゼロバーセントではない。よし、やってみよう。


 店内の時計の針を見る。あと1分で午後1時。時計をなん度もチラ見する猫田さんの様子からすると、1時から昼休憩なのだろう。よし、今がその時だ。


 俺は犬として生まれて初めて、大きい方をするポーズをとった。


「ちょ、ちょっと!何してんのよアンタ」

「ん……ぐ……作戦……」


 プーさん、ちょっと俺に話しかけんといてや。

 俺いま踏ん張るのにすべての体力と精神力を使っているんだぜ?

 それに俺だってプーさんの前で粗相するのはちょっと恥ずかしいんだぜ?

 元女子大生の可愛いトイプードルの前で粗相するんだぜ?


「あー、ポメちゃんたらー!」


 猫田さんが俺の姿に気づいた。

 俺は相変わらず踏ん張っているが、そもそも犬になってから粗相をしたことがない。つまり犬の体での踏ん張り方がイマイチわからず、なかなか大きいのがコンニチワしてこない。

 一生懸命踏ん張っていると、なんだか頭がクラクラしてきた。

 あれ?目の前を星が飛んでる。この症状って……


 俺は貧血を起こし、意識を失ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る