4 覚醒
その後のことは、よく覚えていない。
でも、長い夢を見ていた気がする。
しばらくの暗闇。
急な光。
狭くて苦しいような、熱いような、もしくは寒いような感覚。
全身を何かに包まれる感覚。
ぼやけているが、隣に蠢く赤い物体。
この物体は何なのだろう。
その物体とぶつかったり、包まれたり。
突如として襲ってくる、信じがたい空腹。
必死に声を出そうとするが、思うようにならない。
すると口の前に、甘い香りのする突起が見える。
その突起の、信じがたい誘惑。
もう突起のことしか考えられない。
慌てて突起にむしゃぶりつく。
暖かくて、気持ちよくて。
そして口から全身に広がる、甘くて滋養のある温かい液体。
その後襲ってきたのは、抗いがたい眠気。
眠って、起きて、突起にむしゃぶりついて。
隣にいる何個かの赤い物体を噛んだり、噛まれたり。
急に不安に襲われ、か細い声を絞り出す。
すると大きな毛皮に包まれる。
不安は霧散し、毛皮に全身を押し付けて眠る。
そんな漠然としたイメージがしばらく続いた。
そしてある時、突然、俺は覚醒した。
ここは、どこだ。
自分の周りは、明るくて狭い空間。
ガラスなのかアクリルなのか、透明な板状のものに4方を囲まれている。
自分のすぐそばには、銀色の大きな皿が置いてある。
ここは、どこなんだ?
じっと目を凝らしてみる。
目が良かったのが取り柄のはずの俺だが、最初は光と色しか見えなかった。
だが、ぼやけていたものが徐々に像を結んでくる。
右側の透明な壁、それを挟んだ向こう側に、茶色っぽい何かが見える。
茶色っぽい何かは、動かない、いや、よく見ると中央あたりが少し上下している。あれは……
……犬、か?うん、犬だな。
あれは、近所では人気ナンバーワン犬種のトイプードルだ。
しかも、幼犬だな。
なぜかすんなりそんな知識が頭に浮かんだ。
今度は反対側を見てみる。
こちらにはこげ茶色の何か、いやこっちも犬か、がいる。
なんだっけ、この犬。
シュ、シュ、すぐに名前が出てこない。
シュ……シュナイダーだっけ?
いや違う、それは超有名サッカー漫画のドイツのライバル名だ。
思い出した!シュナウザーだ。
小さいから、たぶんミニチュアシュナウザーって言ったかな。
これも幼犬っぽい。
両隣に、幼犬。
では正面には何がある?
じーーーっ。
大きな目が、俺を見つめていた。
思わず一瞬、怯む。
正面には……きれいなお姉さんがいた。
うん、綺麗というかかわいいと言うか、エモい感じ。
だが、とてつもない違和感があった。
違和感の理由は、なんといってもそのサイズだ。
お姉さんは、デカかった。
いや、胸がデカいとかそんなんじゃなく、顔がデカい。
違う、顔デカだとバカにしているわけじゃない。
顔、体、手。見える部分、すべてがデカい。
いや、違う。
もう一度、隣の茶色いトイプードルを見る。
幼犬だと一瞬で判断したはずなのに、こちらもなんだかデカく感じる。
シュナウザーも見てみる。
こちらも、同じように幼犬の形だが、サイズはデカく感じる。
違う。こいつらやお姉さんがデカいのではない。
俺が小さいのだ。
俺は自分の手を持ち上げ、見てみる。
何だ、コレ。
俺の右手には、びっしりと白い毛が生えている。
いや、そもそもこれは手じゃない。
足、だ。
もしかして、もしかして。
俺はおそるおそる、声を出してみる。
「キャン!」
かわいい!
いやそうじゃない。
これでわかった、間違いない。
俺は、犬だ。毛の白い犬だ。
多分、俺も幼犬だ。
目の前のデカいお姉さんは、多分普通サイズの人間だ。
俺が幼犬の目線で見ているから、デカく見えているだけだ。
「この子、キャンって鳴いた。か〜わい〜!」
お姉さんが俺を見てニッコリした。
それにしてもこのお姉さん、化粧がかなり濃い。
濃いというかなんというか、うーん、全体的に古い。というか懐かしい感じ。
このチリチリした髪の毛が広がっている髪の毛、何て言ったっけ?
ソバージュ?そうだけど、なんか違う表現があった気がする。
そうだ、思い出した。
フラッパーだ!
説明しよう。
フラッパーとは、ボブスタイルの髪型全体にパーマをかけた髪型のことである。
1980年代後半から1990年代前半に流行し、当時モデル出身で歌手や女優として活躍し、のちに有名なギタリストと結婚した女性がよくしていた髪型で、当時のOLにも大人気だったのである。
このお姉さん、服装もスゴい。
全身ピンク色、いやショッキングピンクだ。
その上に、毛皮というかフェイクファーの白い上着を羽織っている。
そしてショッキングピンクの服は、全身にピッタリ張り付いている。
いわゆる「ボディコン」だ、これは。間違いない。
でもなんだろう、今どきこんな格好の人は街にいない。
見るのは古い映像の中か、その当時を扱ったドラマや映画の中だけだ。
お姉さん、何か撮影でもあったんだろうか?
いやいやちょっと待て。
今はそんな瑣末なことはどうでもいい。
髪型の解説を詳しく説明している場合じゃない。
おれは、何者だ。
犬であることは、右手(右足か)を見て理解した。
いや、簡単に理解しちゃダメだ。
なぜ、俺は犬なんだ?
俺は人間、犬ではない。これは、記憶からも間違いないはず。
現にさっきから頭に浮かぶ記憶は、人間の記憶だ。
俺、という人間の知識と経験の蓄積で得た、一人の人間の記憶だ。
なのに、じっと手、いや足をもう一度じっと見てみる。
手のひらを見ようとしたが、今の俺には足を人間のようにして手のひらを見ることができない。幼犬だから足が短すぎるのだl。
手の甲、いや足の甲はさっきと変わらず白い毛で覆われている。
多分この裏には、肉球があるのだろう。
状況を整理しよう。
覚えていることは……
そうだl。俺は超大型台風の時に、荒れ狂う川を見にいった。
そして堤防を超えてきた大量の川の水に流されて意識を失った。
その時、多分だけど俺は死んでしまったんだろう。
すごく苦しかったし、その後意識が薄れた記憶がある。
そこから先の記憶はぼやけているが、たぶん犬に生まれ変わってからの記憶だ。
産まれ落ちた瞬間、そして断続的な感情の記憶があり、一緒に生まれた兄弟たちと母犬のおっぱいを飲みながら、母犬に守られて育った記憶なのだろう。
うん、そう考えるとあの断続的な記憶の映像や感情も納得できる。
そしてついさっき、きっかけはわからないが、自我に目覚めた。
人間だった時の記憶を取り戻した、というわけだ。
つまり人間だった俺は、犬に転生した、ということだ。
理由はまったくわからないけど、一旦ここは事実を飲み込むしかない。
そうじゃないと考えがまとまらない。
まずは今の事実を受け入れよう。
流石に夢ではないことは、思考の明瞭さからもはっきりしている。
と、目の前の女性、体にぴったりしたショッキングピンクの服を来た女性が、いわゆる「フラッパーボディコン女」が隣にいる男に話しかけた。
「ねぇカズくん、私この犬ほし〜い〜!」
同時に、ある言葉が彼女の表情に重なって聞こえた。
――カズくんは私のミツグくんなんだから、これくらい余裕よね〜――
説明しよう。
ミツグくんとは1980年代末頃、女性の気を引くためにお金やプレゼントを送る、つまり貢ぐ男性のことを「ミツグくん」と呼んでいたのである。
つまり当時の女性にとってのATMだったわけであーる。
いや待て、冷静にミツグくんの説明をしている場合じゃない。
今のって、フラッパーピンクボディコンお姉さんの、心の声じゃない?
流石に当人の目の前で「私のミツグくんなんだから」なんて声に出して言うような内容じゃない?
「うーん、ケーコちゃんごめん!僕、花粉症だからペットはダメなんだよ」
同時に、こんな言葉がミツグくんの表情に重なって聞こえた。
――19万8000円って、いくらなんでも高すぎだろ――
――ケーコちゃん、最近おねだりがちょっとひどいな――
やはり、そうだ。間違いない。
俺、つまり白い毛を持った犬らしき俺は、人間の心が読めるらしい。
いよいよ、転生ものっぽくなってきやがったぜ、ヒャッホウ!
なんてヤケクソ気味に思った。
転生だけでもありえないのに、犬に転生?
人の心が読めちゃう?
おれ、どうなっちゃうの??
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