3 濁流

 今の俺は、犬だ。ポメラニアンの幼犬だ。

 だが元はまぎれもない人間の男だった。

 そもそも、俺はどうしてこんなことになったんだっけ。

 まずは人間だった時の記憶をじっくりと思い出してみることにしよう。


 俺はごく普通のサラリーマンだった。

 仕事で出会った女性と恋に落ち、結婚。

 子供が産まれて、波はあるものの仕事も順調。

 実家の親の援助を得て、小さいながらも一軒家を構えていた。

 もちろん鬼の35年ローン払いだったが。


 そんなある日の週末。

 テレビのニュースでリポーターが悲痛な声を上げ、視聴者に呼びかけていた。


「……戦後最大級の台風18号は伊豆半島を抜け、今は関東全域が暴風圏となっております。最大風速は20メートル、緊急の要件以外は外に出ないでください……」


 公共放送の画面には大きな文字で「超大型台風情報」のテロップ。

 気象衛星の雲の画像では、きれいな渦巻き型の台風が関東をすっぽり覆っていた。

 確かにこんな大きな渦巻き、見たことがない。


 実に不謹慎だが、俺はこういった状況が嫌いではない。

 台風という、なんかいつもと違う状況にワクワクしちゃう変なヤツだったのだ。

 中学の時、台風の日に友達の家に遊びに行く約束をしていて、強風で傘をぶっ飛ばされてびしょ濡れになった自分に、思わず笑っちゃったことがある。

 以来、なんとなく台風が来るとワクワクしてしまうのだ。


 そして俺は、大型台風が来た時のルーティンを始める。

 液晶タブレットで、近所の大きな河川のリアルタイムカメラを検索するのだ。


 すごい。というか、これはヤバい。

 あと1メートルほどで堤防を越えそうなほどの水位が見えた。

 奥に映っている民家やマンションは大丈夫なのだろうか。


「ワン!」


 その時、ウチで飼っている犬がケージの中で俺に吠えた。

 ウチの愛犬、モップだ。

 10年前、近所のホームセンターで見かけて飼いはじめた犬だ。

 今は老犬の域に入っているが、いまだにウチのアイドルでもある。


「ワンワン!!」

「うるさいよ、モップ。どうしたのー吠えちゃって」


 実はどうしたもこうしたもないのは分かっている。

 昨日から断続的に雨が降り続き、モップは昨日も今日も散歩に行っていないのだ。

 きっと「散歩に連れてけよ」と言っているのだろう。

 俺がモップだったら絶対そう言ってる。


 俺はレースのカーテンを少し開き、窓の外を眺める。

 外は大雨というか、これぞ豪雨という感じだ。

 とにかく音がすごい。雨音が外の道路を叩く音が聞こえるし、窓を斜めに叩きつける雨粒は窓を勝手に掃除してくれているのではないか、というほどの水量だ。


 ウチは犬用の雨ガッパなんてオシャレなものは持っていないので、これではモップはびしょ濡れになってしまう。

 毛が長い犬だから、濡れたら乾かすのも大変だし、そもそも老犬だけに風邪を引かれても困る。


「モップ、今日は雨だから無理だよ」

「ワンワンワン!!!」


 そうだよな。「そんなの知るか、はよ連れてけ」って言ってるよね、多分。

 そこで俺はふと、あるアイデアを思いついた。


 近所を走る高速道路、その高架下。

 そこには小さい公園というか土の広場があり、普段は子供が遊んでいる場所がある。

 そこだったらモップも多少の運動をすることができるだろう。

 以前モップの散歩中に急に雨に振られた時、そこで雨宿りしたことがあったっけ。


 その公園のすぐ近くには、先ほどタブレットで見た大きな川が流れている。

 だが堤防は高く、万が一にもその堤防を超えるほどの水位にはならないだろう。

 さすがにそんな大惨事は考えられない。というか想像できない。


 問題はその公園までの移動手段だが、ウチには中古の小さなファミリーカーがある。

 意を決した俺は自転車用の雨ガッパを着て、奥さんに声をかけた。


「高架下の公園にモップの散歩行ってくる」

「え、危ないよ!やめなよ、今日散歩するの」

「でもモップが可哀想だよ。大丈夫、少しだけ行ってくる」

「あ、ちょっと!ホントに気をつけてね」


 奥さんに軽く手を振り、モップを抱いて家を出ると、車の助手席に乗せた。

 ほんの10秒ほど外に出ただけなのに、モップはすでにびしょ濡れになってしまった。

 それでもモップは散歩に連れて行ってくれるとわかったらしく、なんだかウキウキしているように見えた。


 キーを回し、エンジンをかける。

 大きな雨粒がフロントガラスを叩く。

 ワイパーを最大にするが、それでも前が見えづらいほどの大粒の雨がフロントガラスを叩く。

 俺は慎重にハンドルを右に回し、豪雨の中、車をスタートさせた。


 高架下の公園までは時間にして5分程度。

 時刻は夕方だが分厚い雨雲のせいなのか外はかなり薄暗かった。

 普段からそれほど車が通る場所ではないが、この日は一台の車も見なかった。

 確かに車の運転は避けたいほどの大雨だ。運転席からの視界は10メートル程度しかない。


 公園のすぐそばに車を止め、モップを下ろす。

 車を止めた場所は高速道路の高架下のすぐ近くなので、今度はモップも濡れずに勢いよく高架下の公園に駆け出していく。


「ハッハッハッハッ ワン!」


 うん、喜んでるね。連れてきて良かった。


 俺はモップの小と大を処理し、しばらくモップが匂いをかいだり走ったりするのを眺めていた。

 すると、公園の横を一台の車が通り過ぎるのが見えた。

 青いパトライトがついた小さい車。

 たしか、区だか都だかの防犯巡回パトロール車だ。


「こんな日にパトロールか、ご苦労さんだね」


 独り言を言い、パトロール車が向かう方向を眺める。

 雨は相変わらず大粒で、すぐに車の姿は見えなくなった。


 その時ふと、ある悪魔的な考えが頭をよぎった。

 すごい水位の川。泥にまみれた、暴力的な流れ。

 ちょっとだけでもいいから、濁流の川を見てみたい。ちょっとだけでもいいから覗いてみたい。

 たしか数年前もこんな台風の時、歩いて見に行ったことがあったっけ。


 うん、危ないことはわかっている。

 でも何だかその考えは、俺の心に魅惑的な感情を引き起こした。

 まるでドSなキャバクラ嬢に惹かれてしまうみたいに。


「モップ、ちょっと行ってみるか!」

「ワン!」

 モップも少し運動したからノリノリだ。


 あまり雨に濡れないよう、高速道路の高架下を伝いながら川に向かう。

 河川までは50メートルほど。

 近づくにつれ、腹に響くような轟音が巻き起こっているのがわかる。


「思ったよりヤバい音してんな」


 誰にともなく声を出しながらも、足は止まらない。

 モップも歩けるのが楽しいのか、道路の水を撒き散らしつつ歩いている。

 あーあ、家に帰ったらモップの全身を乾かさないとな。


 川の土手はもう目前だった。

 高速道路高架下をクロスする道路を渡り、3メートルほどの土手を登る。

 登りきると、そこには想像を絶する近さで水が流れていた。

 水、なんてもんじゃない。濁流、と言う表現がぴったりだ。

 普段は土手の下から川沿いまでは20メートル以上あるのに、この日はすぐそこに流れがあったのだ。


「キュン……」


 モップも少しビビったのか、声を上げる。

 いやそれ以上に、俺がビビっている。

 こんなのに巻き込まれたら、絶対に助かりっこない。

 やっぱかーえろ、と俺は踵を返した。


 それは突然に起こった。

 警報のサイレンが突然鳴り出したかと思うと、上流側からさらに轟音が起こった。


 迫り来る水。

 遅れてやってくる轟音。

 まるで津波のように、川が襲いかかってきた。


 世界が一変した。


 人間の質量では、大波や津波などの圧倒的な水のパワーに適うべくもない。

 一瞬で俺は水に攫われ、木の葉が舞うように濁流の中を上下した。


 そのとき咄嗟に思い出していたのは、結婚前に趣味でやっていたダイビングのことだった。

 伊豆海洋公園で波の高い日、海から上がる時に高波に巻き込まれ、海中をまるで風に舞う木の葉のように上下した。

 空気タンクから空気を吸うためのレギュレーターは水の勢いで外れ、危うく溺れて死にかけた。水の怖さを改めて思い知った日だった。


 でも、今度は助からないだろう。

 一緒にいたはずの犬の姿は、もうどこにも見えない。

 モップ、連れてきてゴメン。完全に俺のせいだ。

 奥さん、子供、ゴメン。何にも残してやれなかった。


 水死が一番苦しい死に方だって聞くけど、本当かもな。

 耳と鼻と目と口と肺、すべてが水に満たされる感覚があったあと。

 俺の意識は闇に堕ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る