第5話 そんなの、筆者に聞かないと分からないじゃないか

 そしてその夜、私は幻想の世界に足を踏み入れた。

 それは間違いなく幻想の世界だった。夢ではない。まずその世界に入った私がやったことは、頬をつねることだった。右の頬をつまんで、引っ張り、ねじった。夢の中の人は、まずそんなことはしない。これは夢じゃないんだ。かといって現実なのか、それは分からない。でもとにかく、私は幻想の世界に足を踏み入れた。

 その世界は、私が想像していた幻想の世界とは違った。見渡す限り、美しくて広い平原と緑が生い茂っていて、空は広い。そういった感じの幻想の世界ではなかった。いま私のいる幻想の世界というのは、緑はなく、宇宙のような場所だった。一応地面があって、そこに足をつけることはできるのだが、基本的には宙を泳ぐようにして移動した。全体的に紫っぽい青の魅惑みたいな色彩で、そんな色彩の中で、宙をフワァーと泳いでいると、眠たくなってくる。私が想像していた幻想の世界には、ありとあらゆる場所になにかがあったが、この世界にはびっくりするほど何もなかった。あったとしても、よく分からない形をした何かしかない。

 でもとにかく、私の想像していた幻想の世界と違おうが、私は幻想の世界へ足を踏み入れたからにはやらないといけないことがある。魔法降ろしの鳥を見つけなくてはならない。私は宙を平泳ぎで移動し、時々地面に足をつきながら、いろんなところを細かく見て探した。

 そんな風に泳いでいると、ふわふわと浮いている手鏡を見つけた。私はその手鏡の元までフワァーと泳いでいき、手鏡をつかみ自分の顔を見た。しかし手鏡には私の姿は映らなかった。手鏡に反射されて映るはずの、佐々木あかりの姿はなかった。でも、それに対して私は特に不思議に思わなかった。もともと鏡を信用していないというのもあるが、ここは幻想の世界なんだ。現実と違うことが起きても、なにも不思議ではない。私はその手鏡をポケットにしまい、再び泳ぎだした。

 どこか遠くが見渡すことのできる高い場所へ行こうと、私は思った。ここがどんな世界で、どんな風景が広がっているのかを、私は知りたかった。それに、魔法降ろしの鳥は鳥なのだから、空を飛んでいるのだと思う。遠くが見渡せることのできる高い場所なら、空を飛んでいる魔法降ろしの鳥を見つけることができるかもしれない。私はあたりを見回して、比較的高そうな山みたいな場所はないかと探した。遠くのほうに、高そうな山を見つけることができた。私はまた、宙を平泳ぎで移動し、その高そうな山を目指した。


 その山を目指しながら、私はかおるのことを思った。彼女もこの世界にいるのだろうか?彼女は学校でいじめられていて、学校がつらいと言った。もし幻想の世界に足を踏み入れることができたら、彼女はもとの現実の世界に戻ってこなくなるのではないだろうか?そう思うと、私はたまらなく不安な気持ちになった。彼女は私の唯一の友達といえるような人で、私は彼女のことが好きだ。その眼鏡のフレームをカチッと押さえる仕草、天然水のような透き通った笑み、そして純粋な心。彼女を失いたくない。けれど、彼女が元の現実の世界にいたら、きっとその純粋な笑みは失われてしまうだろう。そうなると、当然天然水のような透き通った笑みも浮かべなくなる。だから、彼女は現実の世界よりも、こっちの世界にいるべきなんじゃないか、と私は唇を嚙みながら思った。

 もしこの世界で彼女に会ったら、私はなんと言えばいいのだろう?現実に戻ってきて、と言うことができるだろうか?頭を持った佐々木は、1つ1つ順序立ててどういう結論を出すだろうか?心を持ったあかりは、どのように感じるだろうか?私は首を振って、山に向かって泳ぎだした。


 山は険しい道のりだったが、この世界はプカプカと浮遊感があるので、思っていたよりも簡単に登ることができた。そして私はその山の頂上に立って、この世界を見渡してみた。この世界には、本当に緑がないらしい。どこを見ても、木もない、草もない、花もない。辺り一面、荒野のようになにもなかった。しかし、よく目を凝らしてみてみると、地面に隠れて見えなかった川があった。現実の世界では、川はなにかしら大きな意味を持つものだと私は思っているので、とりあえずその川を目指すことにした。どちらにせよこの世界で目指すべき場所がないから、もし現実の世界で川が大きな意味を持たない、ただの水の流れだったとしても、私はその川へ向かっていたと思う。私は何をするには目的というものがないとうまく行動できないタイプなんだ。

 川を目指していると、突然暴力的ともいえるほどの、圧倒的なのどの渇きを覚えた。いまにも枯れてしまいそうなほどのどが渇き、私は海の中で空気を求めて這い上がる人のように、必死で川を目指した。

 川につくと、私はその川がとても美しいことに気づいた。川は透き通って地面も見え、川の中には草や魚がいた。緑が全くと言っていいほどないこの幻想の世界のこの川は、まるで砂漠の中のオアシスのような、そんな貴重さを感じた。あまりに川が透き通っているものだから、この川の上にボートを走らせたら、宙に浮いているように見えるのではないかと私は思った。そのくらい、透き通っていて美しい川だった。現実の世界にあれば、間違いなく観光スポットになることだろう。

 私はその川の水を飲んだ。手で水を少しだけすくって、顔を上にあげて飲んだ。味は全くと言っていいほどしない。なんの味もしないというのは変な気がする。私たちは普通、のどが渇いているときに水を飲むと「美味しい」と感じるはずだが、私はこの川の水を飲んでも何の味もしなかった。でも、なんでかは分からないが、私の体の芯から温まっていくような感覚に襲われた。体が全体的にポカポカしてくるというよりは、下から上へ、だんだんと温かみがやってくるような感じだった。

 私はその川の水をのどが潤うまで飲んで、しばらく川を眺めていた。なんて美しい川なのだろう。かなり長い時間川を眺めたあと、顔を上げると、世界が少し違って見えたような気がした。相変わらず緑も何もない世界だったが、なぜか川の水を飲んだ私には、とても美しい世界のように感じた。すごく不思議だ。何も変わっていないのに、変わったように見える。

 私はのどを潤したあと、川の流れとは逆らって、上流を目指した。なんでかわからないが、とにかく上流を目指そうと思った。それは頭で考えたのではなく、心で感じたことだ。

 そして私は、そこで魔法降ろしの鳥を見つけた。


 魔法降ろしの鳥は、実際に鳥の形をしていたわけではなかった。どちらかというと妖精のような、丸くてふわふわしたものだった。でも私はそれが魔法降ろしの鳥だということが一瞬で分かった。

「魔法降ろしの鳥さん?」と私はゆっくり言った。

「そう、私は魔法降ろしの鳥よ」と魔法降ろしの鳥は言った。

「喋れるの?」と私は聞いた。

「実際に声に出して喋っているわけじゃないの。だってこんな見た目だから、口もないしね。口があったら怖いでしょう?じゃあどうやってあなたに私の言葉を伝えているのかというと、それは私があなた自身だから、あなたの心に語り掛けているの。あなたの心の声よ、私は」と魔法降ろしの鳥は言った。

 確かにその通りだ。魔法降ろしの鳥は私の心の中の架空の鳥。私は私の心と対話しているのだ。

「私、あなたを取り戻したい」と私は言った。

「うん、いいよ。あなたの元へ戻るわ」と魔法降ろしの鳥はあっさり言った。「でもあなたはこう思っていることでしょう。なんでそんなにあっさり戻ることができるんだ、って」

「確かに思っている。2年近く、あなたを見失っていた」と私は言った。

「なんであなたのもとへ2年も戻らなかったのに、いまなら戻れるかというと、あなたはあそこの川の水を飲んだからよ」

「川の水?」と言って私は思い当たった。あの美しい川だ。でもなんであそこの川を飲んだら魔法降ろしの鳥が私の心に戻ってくることができるのだろう?

「それはね、あなたがあの川の水を飲んで、純粋な心を取り戻したからよ」と魔法降ろしの鳥は私の心を読んだかのように言った。いや、でも魔法降ろしの鳥は私の心の中の鳥なのだから、私の心を読めるのは当たり前のことだ。

「なんであの川の水を飲んだら純粋な心を取り戻せるのだろう?」と私は聞いた。

「あなたは純粋な心を持った人の深いところを受け止めることができたからよ。だからあなたはあの川の水を飲むことができたし、飲んであなたも純粋な心を取り戻すことができた」と魔法降ろしの鳥は言った。

 純粋な心を持った人の深いところを受け止めること。それはきっとかおるのことだ。私は彼女がいじめられていると聞いた。その時私は彼女を抱きしめた。だから私はあの川の水を飲むことができて、それで純粋な心を取り戻すことができた。

「その通り」と魔法降ろしの鳥は言った。

「私はもう、あなたを逃がしたくないの。どうしたらいい?」と私は聞いた。

「私を逃がさないようにするっていうのは難しいことよ。あなたはね、中学校最初の自己紹介で魔法降ろしの鳥ついて紹介して、みんなから変わり者扱いされてしまったから私が逃げてしまったのかと思っているかもしれないけれどね、そのあともしばらくあなたの中に私はいたの」と魔法降ろしの鳥は言った。

「そのあともしばらくいたんだ」と私は言った。

「そう、いたの。でもね、学校という環境で、私を逃がさないようにするっていうのはとても難しいことなの。それは穴の開いた鳥かごで、インコを逃がさないようにしているようなものなのよ。だから私が逃げてしまったのはあなたのせいではない。例えばね、国語の授業で、この文章から筆者は何を伝えたかったのでしょうか?っていう問題がよくあるじゃない。そういう問題ってね、机をひっくり返して紙をびりびりに破いてドライヤーで溶かすべき問題なのよ。そんなの、筆者に聞かないと分からないじゃないかって。でも学校というシステムの中では、それにも答えというものがあって、マルとバツというものがある。私たちはマルを取らないといけないから、心が何と思っていようが答えを書かないといけない。そういった問題を出される学校という環境では、私たちの心は潤いをなくしていくのよ。だからね、魔法降ろしの鳥が逃げてしまうことは仕方のないことなの。あなたは私を逃がさないようにするんじゃなくて、私が逃げていくことを受け入れないといけないの」と魔法降ろしの鳥は言った。

 そうか、仕方がないのか、と私は落胆した。私たちの心は、徐々に潤いをなくしてしまうのか。かおるもいつかは、その純粋な心を失ってしまうのか。私は泣きたくなってきた。でも泣くことができなかった。

「かおるはいま、この世界にいるの?」と私は聞いた。

「かおるはこの世界にはいない。絶対に来ることができない。なぜかというとここはあなただけの世界だから。でも、あなただけの世界があるように、かおるにはかおるだけの世界というものがあるの」と魔法降ろしの鳥は言った。

「かおるが、彼女が幻想の世界に足を踏み入れてしまったら、彼女は現実の世界に戻ってこないかもしれない」と私は言った。

「それは、私にはどうすることもできないし、あなたもどうすることもできない。なぜかというと、それは彼女自身の問題だから。私たちは、強く祈るしかない。願うしかない」と魔法降ろしの鳥は言った。

 そうか、それは私の問題ではない。彼女自身の問題なんだ。私はただ強く祈って願うことしかできない。

「さあ、私はあなたのところへ戻るわ」と魔法降ろしの鳥は言った。

 私はうなずいた。

 「いつかまた、あなたのもとを離れてしまうかもしれない。でもそれはあなたのせいじゃない。もし私があなたの元を離れたら、あなたはそれを受け入れて、今後の人生を歩んでいくのよ。わかったわね?」

 私はうなずいて、体を広げた。魔法降ろしの鳥は、助走をつけて私の胸に向かって飛んだ。妖精のような丸くてふわふわした魔法降ろしの鳥は、私の胸の中に消えていった。

 

 私は魔法降ろしの鳥を取り戻すことができた。でも、いずれまた魔法降ろしの鳥は私の元を離れてしまうだろう。その時私は、違う人間になってしまうことだろう。クリームも音楽も、なにも面白くなくなってしまうだろう。世界も色彩を持たない平凡なものに見えてしまうだろう。しかしそれでも私はそれを受け入れなくてはならない。つらいかもしれないし、哀しいかもしれないが、それでも受け入れて、その後の人生を歩まなくてはならない。

 そしてかおる。あなたは現実の世界よりも、幻想の世界にいたいかもしれない。学校に行ってもいじめられるし、あなたにとっては幻想の世界のほうがいいかもしれない。それについては、私に言えることはない。それはあなた自身の問題なのだから。でも贅沢を言わせてもらえば、私は、魔法降ろしの鳥を取り戻した私は、あなたに言いたいことがある。

 そして私は目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る