第4話 行き場のない怒りを私みたいな都合のいい人にぶつけるのよ

 いまの私、つまり中学3年生の佐々木あかりにはいないが、小学生の私には友達というものがいた。その友達は男の子で、名前は田村という。彼は不思議なくらい丸い目をしていて、いつもなにかに驚いているように感じた。前髪を一直線に切ったぱっつん髪で、どちらかというと女の子みたいな人だった。彼はおとなしい性格で、どちらかというと無口だったが、感情表現が非常に豊かだった。楽しい時には頬が桃みたいな色になり、ふっくらとした自然な笑顔を浮かべていた。なにか彼にとって良くないことが起きると、眉をひそめ、全体的に顔色が悪くなった。私はよくそんなに感情を表現できるよなと、よく感心していた。

 彼と私は、小学生の異性同士としては珍しく、お互いに心が通じているところがあり、とても仲が良かった。それは彼が女の子みたいな人なのもあるかもしれないが、それ以上に彼には、もともと住んでいた場所のような安心感があった。彼と一緒にいると、そんな安心感に包まれて、私も温泉につかったかのような顔で、いろんなことを話すことができた。

 私たちはよく、校庭の隅にある一輪車を練習するための支えの近くで、よく分からない使い方をしながら話すことが多かった。何を話していたのか、いまでは全くと言っていいほど思い出せない。それは私が変わってしまったのもあるかもしれないが、多分それ以上に、中身のない会話を飽きることなくしていたからだと思う。でも、話の内容が思い出せなくても、彼と話していることが楽しかったことは覚えている。そういった思い出は、時々私の心を温めてくれた。

 でも1つだけ、覚えている会話がある。その時も相変わらず、一輪車練習用の支えをよく分からない使い方をして話していた。

「ねえあかり、なんで小学校って6年もあるんだろうね?」と彼は言った。

「さあ、なんでだろう。中学校とかは3年なのにね」と私は言った。

「6年も同じところにいるなんて、飽きちゃうよね」

「そうかもしれない。けど私は不思議とまだ飽きていない」

「もしかしたら、1年生から3年生あたりはまだ、自我みたいなものがないから、その3年あたりはあまり記憶に残っていないのかも」

「なるほど。4年生あたりから自我みたいなものが生まれてきて、そこから時間の重みを感じるようになるから、実質中学校の3年間と変わらないってことかな?」

「僕が言いたいのはそういうこと」

「そうね、そうかもしれないわ。私が小学1から3年生までで記憶に残っていることといったら、2年生から算数にかけ算が出てきたことと、3年生から習字の授業が出てきたことくらいね」と私は笑いながら言った。

「大した事、覚えていないね」と彼も笑って言った。

「自我みたいなものが生まれたら、時間が重たくなるのかな」と私は言った。

「僕はそう思うな。4年生になってから、毎年12月31日は夜の0時まで起きるようになった」と彼は言った。

「それって、あなたが夜眠らなくなっただけじゃない?」と言って、私と彼は笑った。

 なんでこんな会話を覚えているのだろうと、ときどき思うところはあるが、結局のところ思い出になるのは、こういった些細な出来事なのかもしれない。私は小学校の修学旅行も、なにをしたのか全く覚えていない。


 中学3年生の佐々木あかりには友達がいない、といったのはあまり正確な表現じゃなかったかもしれない。でも中学生の私が持っている言葉では表現できない種類のことで、うまい表現が思いつかなかった。だからもう一度言い直すと、私には友達がいるかもしれない。でも、彼女のことを友達と呼んでいいのか、私にはうまく判断ができない。彼女というのは、もちろんかおるのことだ。

 彼女のことを友達と呼んではいけない理由なんてない。私たちは学校が違うというのにもかかわらず仲が良いし、毎週休みの日には会って熱心に話をする。だから彼女のことを友達と呼んでもいいはずなのだが、私は彼女のことを友達と呼ぶことが、正しいことじゃないように感じてしまう。頭を持った佐々木が、1つ1つ順序立てて彼女のことを友達と呼んでもいいと言っても、心を持ったあかりが、それは正しくないと言っている。そのことは私を悲しくさせる。だって私はかおるのことが好きなのだから。


 そしてその週の休みの日、私はかおると会った。私たちが最後に会ったのは、彼女が別の道から下校していて、下校中の私がたまたま彼女に会ったのが最後だ。そのときに魔法降ろしの鳥を探す約束をした。

 「今度の休みの日に、会いましょう、一緒に、魔法降ろしの鳥を探すのよ」とかおるは言っていた。

 私には魔法降ろしの鳥を見つける方法がさっぱり分からない。なぜなら魔法降ろしの鳥は私の中の架空の鳥なのだから。そんなこと、疑いようもない事実なのだが、最近は何が事実で何がそうではないのかがよく分からなくなっている。かおるに魔法降ろしの鳥を探しましょうと言われてからだ。彼女にそう言われると、不思議な説得力がある。

 でも、それとは別に私は彼女と会えることを楽しみにしていた。彼女は私の唯一の話し相手なのだから。中学校には、そんな相手はいない。

「こんにちは、かおるちゃん」と私は言った。いつもの挨拶だ。私はかおるのことを「かおるちゃん」と呼ぶし、彼女は私のことを「あかりさん」と呼ぶ。もし、私たちが同い年だったのなら、きっと呼び捨てで言い合っていることだろう。「ねえかおる」だとか、「やああかり」みたいに。

「こんにちは、あかりさん」と彼女はやはりさん付けで私の名前を呼び、満面の笑みを浮かべながら言った。いつ見ても、何度見ても、彼女のほほえみには心が動かされる。

 一通りのあいさつを済ませた後、私たちはいつも通りベンチに並んで座った。ベンチに座ったあと、彼女は眼鏡のフレームをカチッと押さえる仕草をした。好きな音楽の好きなパートを繰り返し聴くように、私は彼女のその仕草をリピート再生したい。

 しばらくの間、私たちは黙っていた。黙っていたといっても、その沈黙は穏やかなもので、必然的なもののように感じた。それはオーケストラコンサートの演奏が終わった後の静寂のような必然性だった。だから私は彼女との沈黙が怖くなかった。むしろそんな沈黙は私の心をリラックスさせてくれた。

「あなたを見ていると、時々昔の友達を思い出すの」と私は言った。

「そうなの?」と彼女は首をかしげて言った。「私にあなたの昔の友達を思い出させる何かがあるのかな?その子は女の子?」

「いや、男の子。ぱっつん髪で、女の子みたいな子だけど、生物学的には男の子」と私は言って笑った。彼女も笑った。

「その子とは今も友達なの?」と彼女は言った。

「いや、小学校卒業してから別れちゃった」と私は少しだけ間をおいて言った。

「そっか」と彼女は言った。

 彼女と話していると、田村を思い出すということは、前からずっと言ってみたかったことだった。でもだからなんだという話だから、今まで言うことができなかった。

 言うまでもなく、田村とかおるは別人だ。全くの別人。日本とブラジルくらい違う。生物学的にも違う。でもなぜか、かおるには私に田村を思い出させる何かがあった。そのなにかが、時々私を懐かしい気持ちにさせて、心を温めてくれたり、なんだか切ない気持ちにさせたりした。

「私も卒業したら、いまの同級生と別れちゃうのかな」と私は言った。自分でも気づかないうちに声に出していて、誰に向けていったのか分からなかった。

「そうかもしれない」と彼女はしんみりとした声で言った。

「あ、そういえばあなたも6年生だから、今年で卒業か」

「そう」と彼女は短く答えた。

 彼女のその返事には、不思議な響きを感じた。ドミナントのあとのsus4コードのような、終止感があるような、続きがあるような、そんな響きがした。それを人間の気持ちに置き換えるなら、どのように解釈すればいいのだろう?

「あなたは卒業するの、寂しい?」と私は聞いた。彼女は下を向いた。

 ドミナントのあとのsus4コードを、私は昔の出来事を照れ臭そうに語る大人と解釈した。これ以上話したくないみたいな終止感もありながらも、心のどこかでは話を続けることを求めているような、そんな感じだ。だから私は、思い切って話を続けてみた。

「寂しくない。早く卒業したい」と彼女は言った。

 しばらく沈黙があった。この沈黙はいつものかおるとの沈黙とは全然違っていた。沈黙が苦しい。

「それは、どうして?」と私は小さな声で聞いた。

「私は、みんなにいじめられているから」と彼女は、打ち明けるように言った。

 体に稲妻が走ったような、そんな感覚襲われた。体が震えるのを感じた。

「いったいどうして?」と私は言った。思っていた以上に大きな声が出て、私はあわてて口をふさいだ。

「そんなの分からないよ。いじめる人たちに理由なんてないと思うの。いじめる人たちはきっと、何かに対して怯えていているのよ。でもその人たちはその何かを言語化できないから、それに苛立って、行き場のない怒りを私みたいな都合のいい人にぶつけるのよ。それをいじめって言う」と彼女は震えた声で言った。

 なんてことだ。彼女のような純粋で、可愛くて、美しい女の子がいじめられているなんて。私には美しい川がコンクリートで埋められる風景が頭に浮かんだ。哀しい。私は彼女の頭を持って、私の胸に押し当て抱きしめた。割れやすいガラスの靴を扱うかのように、慎重に。彼女を抱きしめると、彼女は細かく震えだした。そして私の肌に湿り気を感じた。彼女は泣いているのだ。静かに、誰にも気づかれないように涙を流している。私はちょっとだけ強く、彼女を抱きしめた。失いたくない。

 

 彼女を抱きしめていると、田村のことを思い出した。彼もまた、いじめられていたのだ。

 私がそれに気づいたのは、間違えて彼の下駄箱を開けてしまったからだ。小学校の下駄箱は、縦に5つ靴が入れられる下駄箱で、私の下駄箱の下には、五十音順で佐々木のさと田村のたの間にあるしすせそが苗字の人がちょうど4人いた。だから私の隣にはちょうど田村の下駄箱があった。それである時私が間違えて田村の下駄箱を開けたら、彼の靴がないことに気づいた。あれ、おかしいな、と私は思った。彼はもう帰ってしまったのだろうか?でも彼はあとからやってきた。

「あなたの靴がないわよ」と私は言った。

 彼は困ったように眉をひそめ、首を振った。

「今日はもう帰りなよ」と彼は言った。

 会話が成立していない、と私は思った。私は「あなたの靴がないわよ」と言った。それに対して彼は「今日はもう帰りなよ」と言った。英語にするとよくわかる。

 「Your shoes are missing.」

 「You should go home today.」

 なにかがおかしいと、私は思った。その日は、私はモヤモヤを残しながら佐々木の靴を取り家に帰った。

 

 そして私は見てしまった。彼が4人の男の子に暴力を振るわれているところを。私はとある用事で技術室に入った。なんか物音がするなと思ったら、彼と4人の男の子たちがいた。そこで彼は殴られ、蹴られ、バケツの水に顔を突っ込まされていた。私は全身が鳥肌に覆われ、毛が逆立った。体が動けなかった。私は彼と目が合った。彼は下駄箱の時と同じような、困った顔をしていた。4人の男たちは、彼を一発蹴り、私のほうを見た。その目には余裕のようなものがあった。

 私は全身の勇気というものを振り絞って言った。

「やめなさい!」

 彼と4人の男の子は、私のほうを見た。

「やめてやるよ」と4人の男の子の1人が言った。その4人のリーダー的なポジションの人だ。

 そう言って、4人は出て行った。私と田村だけが、技術室に残った。私は急いで彼のもとへ行き、彼の顔を覗き込むようにしゃがんだ。

「いじめられているの?」と私は聞いた。

 彼は答えなかった。

「大丈夫?けがはない?」と私は言った。

 彼は答えなかった。

「先生に報告してくる」と私は立ち上がっていった。

「それはだめだ!」と彼は私の手をつかみ、引っ張って言った。彼はいままでにないくらい大きな声を出したので、私はびっくりしてしまった。

「なぜ!」と私は言った。

「君もいじめられてしまうだろう?」と彼は言った。

「それでも先生に報告する」と私は言った。

 彼は黙って下を向いた。かなり長い時間、黙って下を向いていた。もしかしたら30秒程度だったかもしれないが、その時私はとてつもなく長く感じた。そして彼は顔を力強く上げ言った。

「お前のことなんて大嫌いだ」

 強く頭を殴られたような痛みが、私を襲った。それと同時に、ナイフで肌の皮を剥がれているような痛みも感じた。そして今までに経験したことがないくらいの悲しみが、私を襲った。涙があふれてきて、何も言うことができなかった。私は立っていられず、泣きながら走り出した。廊下を走って、外に出た。その途中、廊下を走るなみたいなことを言われたような気がしたが、そんなことは本当にどうでもよかった。本当に、本当にどうでもよかった。

 それが小学6年生の、3学期の出来事だった。それから彼とは、目が合っても挨拶もしなかった。一言もしゃべらず、卒業して別れた。


「ごめん、服濡らしちゃった」とかおるは言って、私の胸から顔を出した。そしていつもの眼鏡のフレームをカチッとする仕草をした。

「いいのよ、全然」と私は震えながら言った。

「つらいの、学校が。行ってもいじめられる。だから、私も魔法降ろしの鳥のいる世界に行きたいの」とかおるは言った。

「絶対見つけよう」と私は言って、かおると指切りげんまんをした。

 それから私たちは黙って座っていた。それは先ほどの沈黙とは違って、穏やかなものだった。もう怖くはない。

 やがて日が暮れてきた。私たちは思っていたよりも長く沈黙を守っていたらしい。私は先にベンチに立ち、かおるの顔を見てほほ笑んだ。

「絶対見つけよう」と私は再び言った。

「指切りげんまんしたもんね」とかおるは言った。わざと子供っぽく言ったように聞こえた。そして満面の笑みを浮かべた。失いたくない。と私は思った。


 そして私は家に帰った。ベッドの上で横になると、思っていたよりも疲れていたことに気づいた。服を着替えて再びベッドにもぐりこみ、目を閉じた。

 私は、田村に対してどう接するのが正しかったのだろうか?と私は約3年越しに思った。でも、考えるには私は疲れすぎていた。結論が出るまでに眠りに落ちてしまった。


 そしてその夜、私は幻想の世界に足を踏み入れた。

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