32 サイシュウ話 その3

ナイフを持った桃香、いや果凛かりんは左手に持ったバッグを手放す。

ドサっという音と共に、彼女はナイフを両手持ちにして、その切先を俺の胸の方に向けた。

これはヤバイ。なんとか話をそらさないと。


「なあ、邪魔って、俺のことが邪魔って言ったのか?」

「そう、桃香が言ってたわ。あなたはふさわしくないって」

「誰に?桃香ちゃんにふさわしくないのか?」

「いいから、もう消えて」


言うなり、ナイフを抱えたまま突進してくる。


やあ!みんなは本物のナイフを、誰かに殺意を込めて向けられたことはあるかい?ボクは今この瞬間までなかったけど、たった今わかったことが一つあるよ。

ボクの場合、刑事ドラマみたいに華麗に避けたり、チョップで叩き落としたり、手をつかんで抵抗したりと、そんなことはしなかったよ。

ただ足がすくんで、動けなくなっちゃったんだ。

ハハッ、新発見だよ。


だがその瞬間、世界がこれまでにないほどスローモーションに変わった。


これは、なんのドラマ演出だ?

俺が刺されて死ぬシーンをドラマチックにするためか?

このあと美緒の顔が走馬灯のように浮かんで来るとか、そういうのか?


俺の胸に、ナイフの切先がどんどん近づいてくる。

スローモーションなのになぜか考える時間があるから、恐怖がハンパない。

いっそ、すぐにでも刺して欲しいくらいだ。


俺のそんなささやかな願いは、すぐに叶えられそうだ。ナイフと俺の胸の距離は、あと5センチもない。

ああ、バッドエンドだ……


そう諦めかけた次の瞬間。


ナイフを上回るスピードで、何かがナイフを横に弾く軌跡が見えた。


キイィィィン。

自転車置き場のアスファルトに、ナイフが転がる金属音が響く。

あっけに取られたように目を見開く果凛と俺の間に、ある人物が立っていた。


「やめて!それだけはアナタでもダメよ、桃香!!」


それは、息を切らしたトモミーだった。

さっき見失ったばかりの彼女が戻ってきて、右手に持った木の枝のような棒でナイフを弾き飛ばしたらしい。

待て、今トモミーはなんて言った?

桃香、だと?

やはり双子の妹の果凛、ではないのか?


「違う!わたしは桃香じゃない!あんな弱い女じゃない!男にすぐに体を許すようなバカ女じゃない!私にできないことなんて、ない!!」


金切り声を上げる桃香は、ナイフを拾おうと後ろに駆け出す。

だがトモミーは信じられないほど素早い足捌きで果凛に先回りをして、手に持った棒でナイフを遠くに弾き飛ばす。

果凛は悔しそうな顔で歯を食いしばり、トモミーを睨んでいた。


「桃香!あなたが私を遠ざけたのはこれが目的だったのね?」

「当たり前よ!大事なところで邪魔しやがって!せっかく助けてやったのに。あんたが、あのクソ男を殺したくせに!」


果凛は絶叫した。

だが、果凛のすぐ横にはいつのまにか2人組の男が立っていた。

男の一人が、果凛の手を捻り上げた。呻く果凛。

もう一人の男はゆっくりとこちらに歩いてくると、トモミーに言った。


「藤野朋美さんだね。大鳥義庵さん死亡事件の容疑者として、署に同行してもらえるかな」


トモミーは棒を持つ右手に一瞬力を込めたように見えた。

だが、すぐに右手は開かれ、棒がアスファルトを叩く音が聞こえた。

トモミーは俺を見て、泣き笑いのような顔をした。


「ごめんね、ケンちん。でも、助かって良かった」

「トモミー、キミが、義庵を?……でも彼女は?」


果凛、あるいは桃香は意識がなくなったのか、もう一人の刑事らしき男に抱えられている。

その手には鈍く光る鉄の輪が嵌められていた。


そして俺の側には見覚えのある男が立っている。

渋谷警察署の、俺を取り調べた刑事だった。


「危ない目に遭わせてすまなかったね。我々は今の一部始終を見ていた。キミはもう、自分のマンションに戻っても構わない」


そう言うと刑事さんは、トモミーの手にも鉄の輪をはめ、桃香を抱えた男と、数人の警官と共に宮下公園を去っていった。


あとに残された俺は、ただひたすら混乱するしかなかった。

だが全員が立ち去った後、俺はさっきまで果凛がいた場所の道路の脇に、何か光るものがあるのを見つけえう。

手に取ってみると、それは家の鍵のようだった。


「鍵……これが、世界の鍵、なのかな……」

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