25 第ハチ話 その1
この道はよく知っている。
先の交差点を右に曲がると、私の学校だ。
たしか道路の名前は骨董通り。
車のデジタルメーターを見ると、時間は9時半。
西田さん、どこに連れて行くつもりなんだろう。
信用してるけど……大丈夫だよね、多分。
車は青山一丁目を右に曲がり、さらに進む。
まもなく繁華街の駐車場に車を停めると、彼はすぐに助手席の横に回り、ドアを開けてくれた。日本でさりげなくドアを開けてくれる人はあまりいない。
こういうのスマートだよね、西田さんって。
嫌味なく当然のようにドアを開けてくれるんだもん。私は軽く頭を下げて車を降りた。
「ごめんね、混んでる時間だからここに停めたんだけど、少し歩くよ」
「はい、構いません」
ロアビルの横を抜け少し歩くと、急に暗い道になった。
真っ暗というわけではないけど、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだ。
少し歩くと、
「ここ。静かな店だから、安心して」
と店の看板を指差す。
赤い看板には「bar duello」という文字が見えた。
こんなバーにはあまり行ったことないから、少し緊張するな。
重い鉄のドアを引くと、中は薄暗く、長いカウンターが奥まで続いている。
入って右側には大量の酒が棚に所狭しと置かれていて、その前で綺麗な女性がバーテンの格好でシェイカーを振っていた。
「あら、俊一ちゃん」
「ミズキちゃん、奥いい?」
「見たまんま、誰もおらへんわ。好きにしたって」
綺麗な女性だけど、東京では珍しいベタベタな関西弁だ。
カウンターの奥に案内されると、手前の椅子を引いてくれる西田さん。
私が椅子に座ると、彼はその奥の席に座った。
「飲み物、何がいい?」
「マティーニ、ありますか?」
「ない店なんかないやろ。俊一ちゃんは?」
「僕も彼女と同じものを」
関西弁のバーテンダーはシェイカーを慣れた手つきで振る。
やがて、私と西田さんの前にマティーニが置かれた。
「じゃ、君の瞳に乾杯」
私は無言でグラス彼のグラスにぶつけ、小さく鳴らす。
映画みたいなセリフだけど、彼が言うと嫌味がない。
けど、ちょっと恥ずかしい。私は頬が赤くなるのを感じた。
マティーニは結構強かった。
甘いけど、熱いアルコールが喉を焼く感覚がある。
飲みながらしばらくは今日のラジオ番組についての感想を聞かれた。
ゲストの3人組ミュージシャンは私も知っている有名ミュージシャンで、私も好きなヒット曲がある人たちだった。彼らが思ったより気さくな人たちで見ていて楽しかった、などと話した。
「そうか。少しでも気晴らしになって良かったよ」
西田さんは微笑を浮かべながら、ガラス皿で出されたピスタチオを一粒口に入れる。
「で、相談って何だい?」
相談を持ちかけたのは私なのに、なぜかドキッとした。
実は自分の中でもよく整理できていないことがたくさんあって、何から話せば良いのかわからない。
義庵くんが、間違えてキスしてきたこと。
トモミーが、暴走してカレにキスをしたこと。
桃香が、カレに告白したこと。
そして研一くんが、私に告白しようとしていたこと。
「……自分でも、わからないんです。いろんなことがありすぎて」
「そうだね。人生、いろんなことがあるよ。関係ないようで全部つながっていたり、大事だと思っていたことがそうじゃなかったり」
西田さんの言うことは難しくて、すぐには理解できない。
意味を考えていると、西田はさらに続けた。
「でも実は、僕たちができることはシンプルなことだけだ。一番キミの心を悩ませていることは、何だい?」
一番の悩み、それは。
たぶん、研一くんのことだ。
トモミーも、桃香も、もしかしたら私も、彼のことが……
私、どうすればいいんだろう。
「当ててみせようか?」
見ると、すぐ近くに悪戯っぽい顔をした西田の顔がある。
そんなの、当てられるわけないじゃない。
だって私もよくわからないのに。
だけど西田さんは、私が予想もつかないことを言った。
「キミはね、僕に、慰めてほしいんだ。でもそれで良いのか、悩んでる」
一瞬、理解できずに私は固まる。
だがすぐに、顔が熱くなっていく。
私、そうなのかな。
いろんな悩みがあるけど、それを大人の西田さんに慰めてほしいのかな。
「図星?」
「……そう、かもしれません」
私は西田さんから目線を外し、マティーニのグラスを掴む。
少し離れたところに立っているバーテンダーの女性は、一見所在なさ気にグラスを磨いているが、私たちの会話に聞き耳を立てているようにも見えた。
お酒が回ってきたのか、だんだん何がなんだか私はわからなくなってきた。
今の思いをすべて吐き出した方が楽になれるかな?私はなんだか投げやりな気分になっていた。
「だとしたら、西田さんは私に、何をしてくれるんですか?」
「それは、キミ次第だ」
「わたし、次第?」
「そう。キミが彼のことを本気で忘れたいなら、僕はキミの望むことをしよう」
「……もう、全部忘れちゃいたいです」
「本当かな?」
私はキッと西田さんを睨んだ。
「忘れたいです。あんなバカ男のこと!
トモミーにキスされたのに、付き合うわけでもないし。それに桃香に、その、エッチなこといつも考えてるし。それなのに私に変なこと言おうとするし。意味わかんないです」
「変なこと、ね。まあいいや。それで全部かい?他にも本当に言いたいこと、あるんじゃない?」
「そんなの……ないです」
嘘だ。
私にはまだ隠していることがある。でもそれは言いたくないし、自分でもよくわかっていない思いだ。
義庵くんからのキスは、ショックだったけど……実はもう気にしていない。
あの日はけっこう傷ついたけど、義庵君はすぐに謝ってくれたし、その態度は真摯だった。
たぶん桃香にキスしようとしたんだろう、と思う。桃香、モテるしね。
それに、その後にいろんなことがありすぎで、もう間違いでキスされたことなんてどうでも良くなったというのが本音だ。
「ではそれを踏まえて。大人から一言、いいかな?」
「はい。なんですか?」
なんだか面倒くさくなってしまった。
もう、西田さんにすべて委ねてしまおうか。
だけど、西田さんの言葉は予想もしないものだった。
「ケンイチくんの話、もう一度ちゃんと聞いてあげたほうがいいな」
「……どうしてですか。あいつ、誰でもいいって言ったんですよ?」
「本当に、そんな言い方だった?」
私はあの時のことを思い出そうと目を伏せる。
あいつ宮益坂下で、何て言ってたっけ?
(俺、男だから。
桃香ちゃんだけじゃなく、誰でもああなるんだ。
例えば、トモミーでも、もちろん美緒でもだ)
あいつの言葉を思い出すだけで顔が熱くなる。心臓の鼓動が速くなる。
抑えきれない怒りが頭の奥から熱となって湧き上がってくる。
だけど、
(俺、男だから)
その言葉、何か引っ掛かる
……そうか。
彼は、自分の気持ちを、一言も言っていないのだ。
男だからああなるという、ただの事実だけだ。
男の人はそうなるって、むかし桃香が言ってたことを思い出す。
(若い男なんて、女の子と手が触れただけでも、アソコがエッチな状態になっちゃうんだよね。ま、生理的なものだから仕方ないけどさ、やだよね)
(嘘でしょ?男って、そんなコトになるの?好きじゃなくても?)
(ホントホント。しょうもないよね)
あれは、トモミーと3人で家飲みをしている時だったか。
なんでそんな話になったのか、もう忘れちゃったけど。
トモミーは、私聞いてませんよーみたいな態度だったけど、耳たぶが真っ赤になってたから、興味はあったんだろうな。
はっきりと言わないが、桃香は男性経験が結構あるのだと思う。
でもそれなのに、桃香はあの時。
(わかってるよケンイチくん。私と、エッチしたいんだよね)
どうして急に、あんなことを言ったんだろう?
ケンイチくんは男だから、ああなることがある。
そのことは桃香が一番知っていると思う。
それなのに、研一くんをあんな言葉で追い詰めた。
なぜ彼女は、あんなことを言ったんだろう?
桃香も本気で研一君のことが好きだから?私に取られたくなかったから?
どっちも普段の桃香らしくない、と私は思った。
研一くんともう一度話す前に、私は桃香とちゃんと話さないとダメな気がする。
「西田さん、ありがとうございます」
私は席を立ち、その場で深くお辞儀をした。
西田は何も言わず、右手の人差し指と中指を立て、敬礼のような仕草をした。
私はそのまま店を出る。
女性のバーテンダーは、なんだか薄く笑っているように見えた。
部屋に戻ろう。桃香と話そう。
結果がどうなるかはわからないけど、とにかく話さないと。
誰かが傷つくかもしれないけど、たぶん今よりはマシになるはずだ。
美緒が去ってドアが閉まると、店内に一瞬静けさが戻った。
だがすぐにグラスを準備する音、続いてカクテルをシェイクする音が小さく響く。
「せっかく若くて綺麗な子をゲットできるチャンスやったのに〜」
ミズキがニヤニヤしながら西田に新しいカクテルを差し出した。
「かもね。でもさ、僕だって傷つきたくないよ。急にやっぱり彼のことが、とか後で言われたら、大人はダメージ大きすぎて立ち直れないよ」
「結局、モテるのに臆病なんやね、俊一ちゃんは」
「ハハ、その通りだ。もう大人だからね」
「だからー、私にしとけば良かったんになー」
「あれはあの時だけって約束だったろ?」
「私はいつでも年中無休で待ってるで〜」
「ハハ、とりあえず今夜は勘弁してくれよ」
西田はカクテルを持つと、一気に喉に流し込んだ。
少しだけ寂しげな笑顔で。
マンションに戻って鍵を開けると、部屋の電気は全て消えていた。
桃香のラジオはとっくに終わったし、トモミーは明日も仕事が早い。
夜11時だし、二人はもう寝てしまったのかな。
私はリビングの電気をつける。
だが、かすかな違和感を感じた。
部屋はいつも通りに見えるのに、何が違うのだろう。
リビングに通じる3つのドアは、それぞれ私たちの個室だ。
親友とはいえ3人とも大人だから、個室は確保してあるのだ。
その一番右にあるドアが、半開きとなっていた。
その部屋は、トモミーの部屋だ。
珍しいな、と思う。彼女はガサツに見える時もあるが、基本的には整理整頓が得意な女の子だ。そうじゃなければ信用金庫勤務なんか勤まらない。
「トモミー?寝てるの?」
私はゆっくりとドアを開ける。
室内は春なのになぜか寒い。見るとエアコンが着いていて、冷房中の青いランプがエアコンに灯っていた。
部屋の電気は消えていて真っ暗だが、ベッドに人影が横たわっているのが薄く見えた。
なんだ、やっぱりトモミー、寝ちゃってるんだ。
でも、掛け布団らしき塊がベッドに下に落ちている。
あれ、トモミーってこんなに寝相悪かったっけ。
仕方ないな、ともミーったら。私は掛け布団を拾い、トモミーにかけてあげようとして近づく。
ふと見ると、ベッドに寝ている人が、私をじっと見ていた。
「ヒッ!」
不意に全身から力が抜け落ち、私は崩れ落ちた。
自分でも気づかぬうちに悲鳴を上げながら。
「キャーーーー!!」
そこにいたのは、トモミーではなかった。
私に暗闇でキスをした男。
隣の部屋に住む、義庵だった。
彼は目をカッと見開いたまま、微動だにしない。
死んで、いた。
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