23 第ナナ話 その2

「待って、ケンイチくん」

声に振り向くと、桃香ちゃんが息を切らして走り寄ってきた。


「大丈夫?手から血が出てるよ」

「うん……ちょっと擦りむいただけ」

「無茶するんだ。男の子だね」

「……」


俺はそんなに深く物事を考えて生きているわけではない。

でも、美緒が西田のポルシェに乗っているとわかった時、美緒の表情がどこか寂しげだと感じた時、俺は無意識に走っていたんだ。それだけだ。

黙ってうつむく俺を桃香ちゃんはしばらく見ていたが、やがて言った。


「今日ね、美緒、番組のスタジオ見学に来てたんだ」

「……桃香ちゃんの番組?」

「そう。美緒がどうしても見たいっていうから」


別にそのこと自体は何もおかしくない。

親友の仕事現場に行って、ラジオ番組を見学させてもらう。そんなことはよくあることだろうし、学生にとって社会見学にもなるだろう。

問題は、その現場に西田という男がいる、それだけだ。


「美緒、さっき西田さんに相談があるからって。西田さんも良いよって言ってた」

「あいつら、どこに行ったかわかる?」


桃香ちゃんは首を振った。


「わかんない。西田さん、いろんなお店知ってるからね」


なんだか頭がぐるぐるしてきた。相談って、何の相談だ?

この前、西田もそんなことを言っていた。

たぶんオシャレなレストランでイタメシでも食べて、海の見えるバーとかで甘いカクテル飲ませて、それで、それで。


いつか俺の脳裏に浮かんだ光景のように、二人は裸で。


くそっ。どうすりゃいい?


そのとき不意に、俺の体に温かい感触が広がる。

桃香ちゃんが、俺の体に抱きついていた。

パサッ。

彼女の帽子が道路に落ちる音が聞こえる。


いつしか世界が、完全なるスローモーションの世界に変貌している。

周囲の音は完全に消え失せ、俺と桃香ちゃんだけが動いている。

そしてリバーブをかけたような桃香ちゃんの声が響く。


「フラれたんだよ、ケンイチくんは。美緒に」


そう、なのか。


「西田さんは大人だし、美緒はもう大丈夫」


大丈夫、なのか。


「美緒のこと好きでもいいから。私、一緒にいてあげる」


いい、のか。


転んだ時に頭でも打ったのか、それとも西田に美緒を連れ去られたショックが大きいのか。

俺はもう何も考えられなくなっていた。

もういい。休みたい。なんでもいいから安らぎが欲しい。

美緒……



桃香は帽子を拾って被り、俺の左手に抱きつくと、俺を少し引くようにして歩き出す。

左手に、桃香の豊満で温かい胸の感触を感じる。

向かう先の道路に、青いネオンの看板がある建物がある。

桃香は俺をその建物に誘導し、中へと入っていく。



桃香は優しく俺を慰めた。

俺はもう、難しいことを考えるのをやめた。


俺はその日、大人への階段を登った。




朝チュンの音が聞こえる。

西麻布という都会、そのホテルの中でもそんな音が聞こえるんだ。

薄く目を開けた俺は、そんなくだらないことを考えていた。


隣には、裸にシーツを巻き、すやすやと眠る桃香。

俺、なんだか昨日はひどいことをした気がする。

あんなこと、こんなこと、思いつく限りのこと、すべて要求した。

桃香はすべて受け入れてくれた。


桃香は昔の美少女アイドルにそっくりだ。

眠っていてもその可愛さは1ミリも揺らがない。

乱れた髪が彼女の魅力をより引き立てているようにすら思える。


もう、美緒のことは忘れよう。

俺、桃香と幸せになろう。

このドラマユニバースにやってきた時の目標とは違うが、この世界は俺のドラマのための世界。どう転がろうと、誰からも非難を受ける筋合いはないはずだ。


その時、ピアノとストリングスから始まる曲がホテルの部屋に流れ始めた。

Boys town gangの「Can’t take my eyes off you」だ。

あれ、この前の曲と違う。またこの曲に戻ったんだな。

まあそんなのどうでもいいか。


たしか今は、第7話のはずだ。

妖子さんはこのドラマを「全10話」と言っていた。

あと3話、どんな話が展開するんだろう。

俺はここで終わってもいい。もうどうだっていいのに。

あと3話も、何をするんだろう。


そして世界は黒にフェードアウトしていく。


つづく。

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