17 第ゴ話 その2
俺はジリジリとした気持ちで夜を待った。
夜7時を過ぎた時、俺は電車とバスを乗り継ぎ、六本木の街へ。
学校からはそんなに距離があるわけではないが、六本木は普通の学生にとってそれほど馴染みがある街ではない。
前世というか、本来の俺の時代でも1、2回、友達の付き合いで行ったくらいだ。
六本木交差点前のバス停で降りると、信号を渡ってアマンドの横の坂を下る。
この道は麻布十番に向かう道になっているが、車も人もそれほど頻繁に通る道ではない。
300メートルほど歩くと、道の左側に「bar duello」という赤い看板が見えた。西田はドゥエロとか言ってたから、たぶんここだ。
一人でこんなバーに入ったことなど一度もないから、少し緊張する。
重い鉄のドアを引くと、中は薄暗く、長いカウンターが奥まで続いている。
入って右側には大量の酒が棚に所狭しと置かれていて、その前で綺麗な女性がバーテンの格好でシェイカーを振っていた。
西田の姿はすぐに見つかった。
カウンターの一番奥で本を読みながら、ブランデーのようなものを一口飲んでいた。
俺は店の奥に入り、西田の隣に座った。
俺の姿を見ていたのか、西田は驚きもせず本を閉じて俺を見る。
「良かった、来てくれて。忙しいのに悪いね」
「ああ」
本当は忙しくなんかない。一日中家に引きこもっていただけだ。
だが何を言っても言い訳になりそうだったので、俺は返事だけにとどめた。
西田は俺に飲み物のオーダーを聞いたが、こんなバーで何が飲めるか、俺は知らない。
そんなことを説明するのも癪だったので、
「ちょっと憂鬱な気分を吹き飛ばすカクテルを」
要はバーテンにぜんぶ丸投げした。
バーテンはウォッカにジンジャーエールを混ぜ、シェイカーを振った。
俺の前にグラスを置くと、シェイカーの液体を流し込み、ライムをグラスに添えた。
モスコミュールという酒らしい。強い酒なのだろうか。
まったく知らないが、それを悟られるのも嫌なので、俺は何気ないそぶりをしながらグラスに口をつけ、警戒しながら一口飲む。
あれ、美味しいし飲みやすい。俺、これ好きかも。
そんな俺の姿を微笑しながら見ていた西田は、俺がグラスを置くと話しかけてきた。
「キミ、本は読むかい?」
「なんだよいきなり。あんまり読まないかな」
「僕はね、結構乱読派なんだ。これ、読んだ?」
西田は手に持っていた本のカバーを外し、表紙を俺に見せる。
「去年、流行ったよね。村上春樹のノルウェイの森。読んだ?」
「読んでない。ずいぶんミーハーな趣味だな」
村上春樹という作家の名前は、本を読まない俺でも当然知っている。
確か有名なベストセラー作家のはずだ。ノーベル文学賞候補だとかなんとか、たまにネットニュースでも見たことがある。
ま、いかにも西田のような軽そうなミーハーが読みそうなイメージだな。
「ま、ミーハーは否定しないよ。でも、流行り物にはそれだけの理由がある。この本を読み直したのは3度目だけど、理由はなんだと思う?」
本の内容がわからないから、返事を返しようがない。
それに俺がこの世界に来てから、まだ1ヶ月も経っていない。
俺にとっては生まれる前の時代の古い本だ。読んでいるはず、ないだろ。
「月並みだけど、俺はこの話から男女の恋愛にはタイミングがある、と感じとることがあるんだ」
……いったい何が言いたい?
「前振りはもういいから、本題を話してもらえませんかね」
「そうだね、ごめん。単刀直入に言うよ」
西田は本を置くと、俺に体を少し向けた。
「キミと美緒ちゃんの恋愛は、タイミングをもう失っている」
タイミングを失う。
誤解を乗り越え、俺は美緒に告白しようとした。だが結果は、告白することができず、さらに傷つけてしまった。
確かにこの男の言う通りかもしれない……悔しいが。
「そして美緒ちゃんの恋愛は、いま別のベクトルを示している」
「……」
「昨日、僕に電話があったんだ、美緒ちゃんから。ちょうど車に乗っていたから偶然電話を取れたんだけどね」
「……で、美緒は何を?」
「彼女、泣いてたよ」
美緒が、泣いていた?
もうあれから1週間以上経っているのに、どうして。
「彼女は、電話では何も話してくれない。何があったのかもね」
「……」
「僕はこれでも大人だ。20歳の女の子の気持ちなんて、想像するしかない。まして何も話してくれないのでは、どうしようもない」
そりゃそうだろ。
美緒がお前になんか、何を話すっていうんだ。
「でもね。大人だから、彼女が話したくなるまで待っていることはできる。彼女を傷つけないよう、守ってあげることもできる」
「……守るだと?どうやって?」
西田はその疑問には答えず、別の話を始めた。
「研一くんに、ある悪い男の話をしよう。
その男は若い頃、何にも持っていなかった。でも偶然と幸運が重なって大手のラジオ局に就職できた。
何も持っていないことを自覚していた男は、ガムシャラに働いた。寝食を忘れて、遊びもしないで、いつか自分の番組を持つことを夢見て」
「……」
「いつしか歳を重ねたその男はプロデューサーになり、ヒット番組を当てることができた。それも何本も。彼は嬉しかった。その実績を買われて、87年に開局しsた話題のS―W A V Eに転職し、現場では一番偉い役職に就くことができた」
「……幸運な男だな」
「ああ、そこまではね。でも彼はそこから悪い男になってしまったんだ」
もちろんこの話は、西田の自分語りだろう。
何が言いたいのか今のところはサッパリだが。
「人間、楽をするとダメだね。その男は役職にしては若く、実績もある。だからいろんな人が近づいてくるんだ。いいヤツ、悪いヤツ。いい女、悪いオンナ。昔の情熱はどこへやら、その男は金と女に溺れていったんだ。人間、若い頃に遊ばないとダメっていうけど、あれはホントだね」
「……犯罪にでも手を出したのか?」
「さすがにそれはないよ、いくら悪い男でもさ。でも、だからって真っ当な人間じゃない。その男はそれを自覚しているんだ」
俺はそろそろ堪忍袋の緒が切れそうだった。
「だから何なんだよ。電話で言った、美緒と付き合うって何のことだよ?」
西田は質問に答えず、俺から目線を放してグラスを手に取る。
「美緒さんのこと、僕は正直よくわからないんだ。
もちろん綺麗な子だし、気の強そうなところも、僕自身嫌いじゃない。むしろそのぐらいの気の強さがあるほうが好みかな」
「……」
「よく知らない歳の離れた男に、20歳の女の子が泣きながら電話してくる理由って何だろうね。しかもそいつは悪い男だよ」
「……話す相手がいないとか」
「同級生で仲が良さそうな男の子にも話せない。一緒に住んでいる女の子にも話せない。そう考えると、キミが言うように話す相手がいない理由は、なんとなく想像できる」
「……なんだよ」
「彼女は、僕と、話したいんだ。僕に、相談したいんだ」
何も言えない。今は、言えることがない。
俺が口をつぐんでいると西田は続ける。
「悪い男だけど、20歳の女の子を受け止めることぐらいはできる。だからね、」
西田は一呼吸おくと、一気に話した。
「キミはもう彼女の前から消えて欲しい。美緒さんもきっとそれを望んでる」
「……お前、美緒に何を聞いたんだ!」
「さっきも言ったさ、何も聞いてないよ」
「嘘だ!」
「いまキミがするべきことは、美緒さんの前から消えることだ」
そんな、そんなはずはない。
美緒のことを、俺は。
美緒は、俺のことを……どう思っているんだ?
「もう、美緒を苦しめないでやってくれ。頼むよ、学生クン」
西田は立ち上がり、一言何かをバーテンに話すと店を出ていった。
俺はしばらく動かなかった。いや、動けなかった。
しばらくして目の前のグラスに気づき、一気に飲み干した。
「もう一杯飲まれます?」
バーテンが聞く。俺は無言で頷いた。
オーダーは聞かれなかったのに、目の前にすぐにグラスが置かれる。
「西田様から、強い酒を渡してくれとオーダーがありましたので」
俺はその酒を、一気に飲み干す。
強いジンと、ライムの風味が口全体に広がる。
きつい、強いカクテルだ。
美味いかと聞かれたら、味なんてわからないと答えるだろう。
でもこれなら酔っ払うことができそうだ。
俺はフラフラと店を出た。
会計はすべて西田がいつの間にか払っていた。
くそ、何もかもムカつく。勝手に酒までオーダーしやがって。その金まで勝手に払いやがって。
俺が学生だからって、舐めやがって。
歩いていると、外国人の陽気な集団が前方からやってくる。
その側には、ボディコンの日本の女たち。
きっとこれからディスコにでも繰り出すのだろう。
その女の一人が、一瞬、美緒に見えた。
ハッと思い目を見開くと、俺の見間違えで全然違う女だった。
そりゃそうだ。
勘違い女で、キレやすくって、怒りっぽい女。だけど誰よりも綺麗で、傷つきやすい女。
美緒はこの中の誰よりも、いやこの世界で一番可愛くて綺麗な女の子なんだ。俺がこの世界で、間違いなく一番大事にしたい女なんだ。
(いまキミがするべきことは、美緒の前から消えることだ)
西田の言葉が蘇り、俺の心は再び落ち込んでいく。
そうなのか。消えなければ、ダメなのか。
いつの間にか、こんなに、好きになっていたのに。
俺がこの世界にやってきた一番の理由なのに。
そこまで考えた時、たぶん俺はその場に崩れ落ちた。
遠のく意識の底でエンディングテーマが流れているような気がしたが、もう俺は何も考えることができず、仄暗い暗闇に飲まれていった。
つづく。
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