13 第ヨン話 その1

この日は朝から講義だった。

結局昨晩はあまり眠れず、朝方になってやっとまどろんだが、そのせいで朝イチの講義に遅刻しそうになった。


フランス文学論の講義。

この日はボードレールの詩の解釈について教授が解説していた。

ボードレールといえば「悪の華」か。

耽美的で背徳的な内容って言われるけど、数々のタブーが共存し認められる現代においては、それほど強烈な内容とも思えないな。

寧ろ現実の方がより残酷で背徳的な行為が存在している。

まあ古典文学というものは「当時の世の中にとっては影響大だった」ことは動かしようもない事実だ。

古典はいつの世も、新しいものを下回ることはない。


なんて珍しく真面目に文学論について思考を巡らせていると、ひとつ隣の席に座っていた知らない男から何かを渡された。

なんだこれ、手紙?

小学校のクラスでよくこんなの回してたっけ。


4つ折りにした薄いブルーのレポート用紙。

その片隅には「MIO」と丸っこい文字が書いてある。

エムアイオーって何の略だっけ。三重県伊勢市大倉町だったかな?


いや、実際はすぐに気づいた。美緒だ。

彼女はこの教室にいるのか?

周囲を見渡すと、講義室の一番後ろの席に、美緒がポツリと座っているのが見えた。彼女はチラリとこちらを見ると、手を合わせて開く仕草をした。

手紙を見て、ということか。


手紙を開いてみる。中にはたった一文だけ書いてあった。


「お昼休み、学食でお話したいことがあります」


昨日のキス事件のことだろう。

またあの光景を思い出し、心がチクリと痛む。

でも、行かないという選択肢はない。

昼休み、行ってやろうじゃないか。



外は快晴。春の陽気は心地よく辺りを明るく染め、気温は暑くも寒くもない。爽やかな風は心地よく、俺にとっては一年で一番好きな季節だ。


大学の学食は少し古めの建物だが、学生でごった返していた。

どこか座れるテーブルが残っているんだろうかと学食に入ると、窓際のテーブル席に美緒が座って本を読んでいる。


窓からの逆光の中、小説を読む美少女、美緒。

この日は髪をまとめ、まとめきれなかった後れ毛が光を受けてキラキラと輝いている。

薄いピンク色のモフモフした薄手のセーターに、光沢のある白いロングスカート。首元にはシンプルなネックレス。

誰がどう見ても文句のつけようがない美少女だ。

絵が上手かったら絶対にモチーフにしたくなるような光景だった。


美緒はふと顔を上げる。

周りを見渡すと俺に気付き、軽く手をあげる。

俺も手をあげて近づき、美緒の向かい側に座った。


「天気、いいよね。あったかい」


美緒はまずは時節のあいさつから始めた。


「そうだね。俺、春が一番好きだな」


ついさっきまで考えていたことを、そのまま口に出す。


「私も好き。でも、夏も好きだし、秋も好きだよ」

「冬は仲間はずれ?」

「ううん、逆。実は冬が一番好きなんだ」


あれ、ちょっと意外だな。普通季節の話をして「冬が好き」って言う人はそんなにいないんだけどな。


「どうして?」


美緒はニコリと笑って言う。


「だって、冬が好きな人ってそんなにいないでしょ?

なんか私だけが好き!って言う感じで、独占欲を刺激されるからかな」


変わった理論だな、と俺は思う。

美緒は独占欲が強いのかな。


「それはそうと、昨日は……ごめんなさい」


謝るのが苦手って言ってたのに、今日もいきなり美緒は謝ってきた。

何が?彼女は何を謝っている?

俺の親友とキスしたこと?

例えそうだとしても、俺たちは別に付き合っているわけじゃない。

だから謝られる筋合いはないはずだ。


「何で、謝ってるの?」


俺は思ったことそのまま、でもおそるおそる聞いてみる。


「順番に話すね」


一呼吸おくと、美緒は少し背筋を伸ばして話し始めた。


「トモミーが泣いちゃって、パーティがお開きになっちゃったこと」


確かに、なぜトモミーが泣いていたのかは深く考えたことがなかった。

俺は理由を初めて考えてみる。

普通に考えれば、泣く理由があったということ。

例えば、電気が点く直前に、誰かに強制的にキスをされたとか。


昨晩の義庵の告白からすると、トモミーにキスをした犯人(仮)は義庵ではない。

そしてもちろん、俺でもない。むしろ俺は被害者側と言えるだろう。

となると、犯人(仮)は一人しかいない。


西田だ。

アイツ、桃香ちゃんとキスをしていた。

しかも言うに事欠いて「美緒ちゃんかと思ったら桃香ちゃんか」と言いやがった。


つまりこういうことか。

西田は暗闇に乗じて、美緒とキスしようとした。

だが実際にキスしたのは、美緒ではなくトモミー。

トモミーが拒んだのか、それとも美緒じゃないと気づいたのか、西田は美緒を探し、またしても間違って今度は桃香ちゃんとキスをしてしまった。

そこで電気が点いた、ということだ。


うん、これなら理論は破綻していない。

俺が一人頷いていると、美緒は首を降る。


「多分だけど、研一くんが考えていることとは違うと思う」


あれ、何でそう思うんだろ。

何か俺の考えで根本的に間違っている事、あったのかな?


「あのね。今回の主犯というか、混乱の原因はトモミーなのよ」


泣いていたトモミーが、主犯?


「トモミーって今まで男の人を好きになったことが一度もないの。男の兄弟もいないし、親も厳しいらしくて、単純に男に免疫がないのよ」

「そうなんだ。たしか高校も女子校だったよね?」

「そう。でもね、トモミーはすっごい想像力が豊かなんだ」

「想像力?」


なんのこっちゃ?キスと何の関係があるんだろう。


「男に免疫がないからこそ、好きになったら一直線ってこと。私に言わせればムッツリスケベなのよ」

悪口といった雰囲気ではない。友達だからそこの軽口、そんな口調だ。


「今回の事件は、トモミーの自作自演なの。あのね、言いたくなかったら別にいいんだけど、電気が消えた時、研一くん誰かにキスされなかった?」


心当たりは2つもある。

まあでも細かく説明する必要はないだろう。


「ある。誰か女の子に、すっごいキスをされちゃったよ」

「それトモミーだよ。あの子、研一くんのこと好きになったみたい」


俺は愕然とする。

あの情熱的なキスの犯人は、トモミーだったのか。

まあ後の二人は別の男とキスをしていたんだから、消去法で考えれば、トモミーしかいないのは確かなんだけど。


俺の、生まれて初めての情熱的なキスは、あのメガネトモミーに奪われちゃったということか。

トモミー、ムッツリスケベにも程があるだろ。

それにしても、あーあ……という気持ちは拭いきれない。

これが美緒だったら、天にも昇る心地だったろうに。


しかも同じ時間、同じ部屋で、俺が大好きな目の前の美少女は、俺の親友とキスをしていたと。

あれ?なんだかじんわり涙が出てきたぞ。


「あの子、問い詰めたら私に自白したよ。キスしたはいいけど、研一くんが誰かにキスされた!って騒ぎ出したら、犯人探しですぐに自分だとわかっちゃうじゃない?だからバレないように、自作自演で泣き出したってわけ」


なるほど、ムッツリなだけじゃなく、結構な策士なんだ。


これで3つ、または4つのキス事件のうち、2つの理由がわかった。

1.義庵が、美緒にキスした事件。

2.トモミーが、俺にキスした事件。


でもあと二つ、理由がわかっていない事件がある。


3.西田と桃香ちゃんがキスしていた事件。


これはどっちから迫ったのかわからない。


そして表沙汰にはしていないが、


4.俺が誰かに軽いキスをされた事件。


これはもしかしたら、トモミーが俺に2回キスしただけということも考えられるけど。


「なるほど、わかったよ。美緒ちゃん、教えてくれてありがとう」

「どういたしまして」


まあ、全ての事件をつまびらかにする必要もないだろう。

所詮は、男女のキスだ。

子供が生まれるわけでもあるまいし、今のところ傷ついている人もいない。

いやいるか、俺は結構傷ついてる。


美緒は手元に置いてあった紅茶に手を伸ばし、一口飲んだ。

こうして近くで見ると改めて思うが、本当に綺麗な子だ。

ツンケンしてるときも多いし、すぐに怒っちゃう時もあるけど、今日みたいに冷静に静かに話すことだってできるし、ちゃんと謝ってもくれる。


誰だって長所と短所があるだろ。

俺の個人的所感では、彼女のいくつかの短所は、長所によって完全に覆い隠せると思う。

まわりくどいので言い換えれば、俺は短所があっても彼女が大好き!ということだ。


美緒はティーカップをソーサーに置き、再び俺と目を合わせた。

だがその直後、信じられないことを話し出す。


「で、どうするの?トモミーと付き合う?」


……は?

どうしてそんな話になるんだっけ。

直前まで「美緒が好きだ!」って考えていた俺に、なぜトモミーが割り込む?

しかも付き合うって、なんでそんなことになる?


「あのね、ちょっと変わったとこはあるけど、トモミーは素直ないい子だと思うよ、うん。私ずっと友達だから、よくわかってるんだ、彼女のこと」


違う違う、そうじゃ、そうじゃない。


「研一くんはトモミーのこと、どう思ってる?」


ダメだ、このままじゃ話が変な方向で固まってしまう。

俺は考えを巡らし、そこで一つの事実に気づく。


コイツ、俺が自分のことを好きだってこと、わかってない。


無理もない。

そもそも俺、美緒に「好きだ」って言ってない。

ずっと心の中で勝手に好きって思っていただけだ。


このままじゃ、ダメだ。

思い切って、いま言ってしまおう。

今こそ、チャンスだ。

いや、いま言わないとダメだと思う。


「あのさ、美緒ちゃん」


俺は顔を引き締め、背筋を伸ばして美緒の顔を見る。

言うんだ。好きだって言うんだ。

はっきり「トモミーじゃなく、俺はお前が好きなんだ」って言うんだ。


心臓がバクバクする。口の中がカラカラになる。

俺も飲み物を買ってからテーブルに座れば良かった。

なんだか足も震えてきた。

そういえば俺、この歳になるまで女の子に告白したことがないんだった。

もう20歳なのに、一度もないんだ。


で、でも、いま言わないと。

なんて言おう。

「拙者はお主のことを好いとおぜよ。デュフフフ」でどうだ?

いや、ふざけてる場合じゃない。


「美緒ちゃん、俺、君のことが好きなんだ」

たったこれだけでいい。

よし決まった。言おう。言ってしまおう。はやく。


「美緒ちゃん、俺、君のことが……」


美緒の目が、俺の言葉で驚くように見開かれる。


「君のことが、す……」

「ケンイチくん!そこにいたんだ」


唐突に、俺の告白は大声で遮られた。

一体、誰だ?

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