第24話 2人きりの夜

 深夜、みんなが寝静まった頃。水をもらおうとリビングのドアを開けると、窓際に日高さんが座っていた。開いたカーテンの外を見上げている。


 足音で気づいたのか、マスクをしていない彼女の顔がこっちを向く。


「あ、かおるくん」


 屈託ないの笑顔を見せる日高さん。月光に照らされたその姿があまりに幻想的で、俺の心臓を大きく揺さぶった。


「目が冴えちゃって。月を眺めてたんだ」


 彼女の隣にあぐらをかいて座り外を見上げると、たしかに眺めたくなる月が出ている。わずかに欠けているが、雲に負けることなくまばゆく煌めいている。


 島にいた頃は景色が開けていたから意識せずとも月が見えたけど、東京に来てからは視界に入ってくる情報量が多すぎて、月を見るのも忘れていた。


「女子部屋は遅くまで賑やかな声が聞こえてたけど、どう?」


 深夜1時を過ぎても聞こえていた話し声を思い出して、訊いてみた。


「生徒会長も副会長も夜行性らしくて、しばらく話し込んでたよ。音月ねるなちゃんは早く寝たそうにしてたけど、生徒会長が寝かせないよう意地悪して怒ってた。わたしもいろいろ訊かれた。ファッションとかメイクとか、君ヒロ時代のこととか……たくさん訊かれたなあ」


 君ヒロ時代のことも訊かれたのか……。


「大丈夫だよ、答えづらいことは訊かれなかった」


 俺の心中を察してか、気丈に振る舞う日高さん。


「遠慮してくれてるのかデマのことは訊かないでくれて。普通に楽しくて、マスクを取ってよかったって思った」


 月光を浴びる顔に微笑みを浮かべた。


 射るような目つきを見せていた頃とは大違いだ。高校に入ったばかりの頃は誰も寄せつけず、話しかけてくる人には最低限の返事しかしていなかった。


 向ける目はいつも鋭くてきつい。事務的な会話すらもしづらいほど、陰湿なオーラで圧していた。


 それからだんだんと目つきの悪さが改善され、人を寄せつけないオーラも弱まり、普通の女子高生らしくなった。


 さらには笑顔も見せてくれるようになり──今では、みんなが笑うタイミングで彼女も同じように笑っている。


 俺の中での日高さんの笑顔は、すでに更新されている。


 彼女の笑顔を記憶から呼び起こそうとするとき、咄嗟に思い浮かぶのは昔の姿じゃない。やわらかく笑う今の表情。小学生の姿の笑顔ではなく、高校生の姿の笑顔だ。


 彗星にはわからないと答えたけど、日高さんへの感情は、とっくに恋愛に近づいていたのかもしれない。


「楽しかったならよかった。日高さんはやっぱり輪の中で笑ってるのが1番似合うよ」


 日高さんに同調するように俺も口元をゆるめた。


 彼女が楽しいなら俺も楽しいし、嬉しそうにしていたら俺も嬉しくなる。そこだけは昔から変わらない気がする。


 ふと、日高さんの顔に差していた月光が弱くなった。なんでかと思い空を見上げると、月全体が煙のような雲に覆われていた。雲が薄くて完全には遮断されなかったけど、それでも微かに陰を差した。


 日高さんに視線を戻すと、彼女はきゅっと唇を結んでいる──ような気がする。眉根を寄せているような気がする。瞳を潤ませているような気がする。


 すべて気のせいと言われたら反論できない些細な変化だったが、どこかさっきまでと纏う空気が違っているように思う。


 雲はすぐに晴れて、再び月光が日高さんの顔を照らす。


「馨くんはわたしのこと、もう『春ちゃん』って呼んでくれないの?」


 え?


「音月ちゃんは音月で、彗星くんは彗星で、阿井あいくんは秋人あきと。なのに、わたしは『日高さん』なの?」


 急に雰囲気を変えるから何を言い出すかと思えば、呼び方の話か。春ちゃんと呼ばれないことを気にしているとは思わなかった。


「この歳でちゃん付けは、恥ずかしいかなって」


 一度そう呼びかけそうになって言い直したときのことを思い出す。


 カウンセラールームで初めて日高さんの素顔を見たとき、名残で春ちゃんと呼びそうになって「日高さん」に言い直した。


 昔話をする流れで言う分には恥じらいはないのだが、本人を前にして呼びかけるのはこの歳だと恥ずかしい。だから、やめた。


「じゃあ、春奈でいいよ」


 じゃあって言われても……。


「馨くんのことを誰よりも昔から知ってるのに、わたしが1番距離が遠いみたい」


 何と張り合っているのだろう。呼び方1つでそこまで変わりはしないのに。


 ……いや、するか。俺も彗星に下の名前で呼ぶようお願いした。呼び方が大事なのは、俺が1番よく知っている。


「わかったよ。今度からはそう呼ぶよ」


 しぶしぶ了承する。


「はい、じゃあ呼んで」

「今呼ぶの?」

「もちろん」


 それとこれとは話が別じゃ……といっても、今さら拒否できないし。呼ぶしかないか。まあ、名前を呼ぶだけだし。


 春奈。春奈。


 軽く心の中で練習する。


「…………」


 が、いざ呼ぼうと口を開くと、声が出ない。

 名前を呼ぶくらい楽勝だと軽く考えていたが、意識して呼ぶのってこんなに緊張するのか。


 今渇いた喉に水を流し込めば、いつもより数倍は水がおいしく飲めそうだが……そんな時間を待ってくれる様子はない。

 

「は、はるな」


 意を決して口にしたが……。


 あー、くそ恥ずい。失敗した。こんなことになるなら、最初から春ちゃんと呼んでいればよかった。まだ春ちゃんのほうが呼び慣れているから。


「馨くん、顔まっか」

「……ほっとけ」


 日高さんがかつてないほど破顔させるので、余計に恥ずかしくなった。


 ***


 翌朝の目覚めは悪かった。部屋に戻った後も興奮してなかなか寝つけなかったから。


 その結果、最後に起き上がったのは俺で、顔を洗ってリビングに向かうと、生徒会が帰ろうとしているところだった。


 それぞれ午後から予定があるらしく、「悪いけど先に帰るね」と俺に詫びを入れてから出ていった。


 なんで詫びたのかと不思議に思ったが、一応、勉強会の名目での泊まりだったことを思い出して納得がいった。


 俺も帰る支度をしないとなあ、と微かに残る眠気を吹き飛ばしているときだった。彗星が声をかけてきたのは。


「話って?」

「ちょっと、まずい事態になるかもしれない」


 彗星にしては珍しく切迫感を見え隠れさせる声だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る