第15話 ラブハプ必至の家庭訪問①
東京に来たばかりの頃は見上げてばかりいて、よく首を痛めたものだ。上を見て歩いていたものだから人にぶつかり、何人かには舌打ちを吐かれた。
おっかねえと思ったが、うちの島にもすぐ舌打ちするじいさんがいたからどこも大して変わらないのだとも思った。
今は高いビルがあっても見上げることは少なくなったが……。
さすがにタワーマンションとなると、話は別だ。
まるで天国へ行くための最後の審判のように、高く空へ伸びる太いマンション。この一室に日高家はあるらしい。
日高さんは正気だった。本当に翌日、俺を家に招待したのだ。
家でやるにしてもせめて俺の家にしようと変更を申し入れたのだが、彼女から返ってきたのは「おじいさんの介護の邪魔になるでしょ」との言葉。
別にそこまでじいちゃんは大病を患っているわけではないのだが、日高さんが来たら作戦会議そっちのけでじいちゃんが話し込んでしまう可能性は懸念された。
決め手は「言っておくけど、お母さんもいるからね。2人きりでは家に呼ばないから」の後押し。
そうして俺は、一度家に帰ってノートパソコンをリュックに放り込んでから、日高家を訪問することになった。
どんな家だろうと予想せずに案内された俺の目の前に現れたのが、このタワマンだ。
初めてタワマンを見たよ。マジであるんだ。
「何してるの? 行くよ」
「あ、はい……」
日高さんに急かされてエントランスを抜ける。胃をつかみ取られるような上昇を感じながらエレベーターで上り、到着を知らせるアナウンスの声でドアが開く。
そこから歩いてすぐの部屋のチャイムを、日高さんが鳴らした。
数秒待つと重厚感溢れる部屋のドアが開き、中から出てきたのは──。
「おかえり。やだあ
春ちゃんの母親だった。
「お久しぶりです」
「敬語まで使うようになっちゃって。子どもの成長は早いわあ」
170センチの長身が俺の頭を撫でてくる。成長は早いと言いながらいまだ子ども扱いな気がするのだが、まあいいや。
おばさんの懐っこさは相変わらずで、誰に対しても「可愛い可愛い」と犬を愛でるようによしよしする。周りの子と比べて体が大きかった俺を唯一可愛がってくれたのも、おばさんだけだった。
3年ぶりに会ったが、子どもと大人の成長速度は違う。笑ったときに垂れ下がる目元は当時の優しげなままだ。
ただ、少しだけ化粧が濃くなった気がする。
「さあ入って」と迎えられて、リビングに案内される。
入った瞬間は記憶にある匂いと間取りに誤差があって違和感を覚えたが、ここまで来ると懐かしさが上回る。
ソファーもテーブルも引っ越しのときに島から運んだ家具を使っていて、日高さんもマスクを取って素顔を晒している。心だけタイムスリップした気分だ。
「馨くんが来るって昨日春ちゃんから聞いて、急いで作ったのよ。食べて」
おばさんがマフィンと紅茶を持ってきて、しばしのアフタヌーンティー。
島にいた頃の趣味だったお菓子作りは、東京に来てからなかなか作る機会に恵まれず、久しぶりに腕を振るったらしい。
おいしい。おいしくはあるのだが……そこからしばらく昔話に花が咲いた。
「あ、もうこんな時間。お母さん、そろそろ席を外してくれる?」
このまま夜を迎えてしまいそうなほどの盛り上がりを見せていたところで、日高さんが口を挟んだ。
「ああ、そうだったね。作業するんだっけ」
あまりにおばさんが懐かしい話を繰り出してくるので、俺も夢中で話してしまった。
今日の目的は、すいねるのPR動画を作るための素材集めだ。最初で躓くと、後々になって響いてくる。
日高さんが「わたしも自分のパソコンを取ってくるね」と言って立ち上がり、おばさんも腰を上げる。俺は、残っていた紅茶を喉に流し込んだ。ぬるくなった紅茶の甘さだけが口に残る。
ふと。「あっ」と思い出したように声を上げたのは、おばさんだ。
「どうせなら春ちゃんの部屋でやったら? お母さん、馨くんが部屋にいると話しかけちゃうもん」
……は?
「そうだね、そうしよう。馨くん、来て」
……え? 本気?
「マフィンは包んでおくね。お父さんお母さんにもあげて」
「あ、どうも……」
おばさんがいるリビングで作業するものだと安心しきっていた俺は、唐突な流れに理解が追いつかず、そのまま拒否できない空気に突入してしまったがために日高さんの部屋に入ることになった。
小学生のときは、女子の部屋に入るのになんのためらいもなかった──というか、幼なじみとして見ていたので意識する余地がなかっただけ──だが、俺も成長した。
高1男子が同級生の女子の部屋に入る行為には深い意味があると知って……。
俺は自分の頬を叩いた。
危ない危ない。危うく勘違いするところだった。
深い意味なんてない。彼女は俺を幼なじみとして信頼して入れてくれるだけだ。
やるのはパソコンをカタカタさせながら情報を整理していく、作家でいうところの編集者との打ち合わせみたいなもの。給料が発生しない仕事の一環だ。
何か問題が起こる可能性は万に一つもない。意識するな落ち着け俺。
「どうぞ」
ちょっと待ってね、と言われて十数秒。部屋のドアが開いて迎え入れられる。
瞬間、アロマのような甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
あ、ダメかもしれない。と思った。
まあ、アロマがどんな匂いなのか知らないから想像でしかないけど。
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