第2話 刺殺された少年の母親との出会い
夫の今田の了解を得て、私は単身、アメリカへと旅立った。
言葉も違うし、治安もいいとはいえない。
なんと車が180度転倒したこともあったほどである。
歌のレッスンは厳しいものだった。
日本とは違って、一度のアドバイス通りしないと、すぐに愛想をつかされ斬られてしまう。
私はもう二十五歳になっていたので、十代のような張りのある声は出せない。
そこでできるだけ感情を込め、低音を工夫することにした。
するとなぜかOKがでたときは、ほっとした気分であり、薄氷を踏む思いから解放されたようだった。
思えば私の歌手生活は、いつも薄氷を踏む思いであったが、帰宅するといつも母が出迎えてくれた。
どんな深夜になっても、母はいつも私のためにホットカルピスを用意してくれた。
先輩タレントはたいてい、夜な夜な行きつけの酒場をハシゴしていたが、私がそうならなかったのは母のおかげである。
母にはよく愚痴をこぼした。
「今日、〇ちゃんにこんな意地悪されちゃったの」
母の答えはいつもひとつだった。
「それじゃあ、あなたが人に対してそんなことをしなければいいでしょう」
コンサートの途中、精神障碍者の若い男性から頭を打撲されたことも答えは同じだった。
決して相手の男性を責めることはなく
「その子の親も辛かろうに」
日本にいる母とは、電話で連絡はするがもう私のそばにはいない。
私が国民的アイドルでいられたのも、復讐をしないという大きな度量のおかげであろう。
私は誰に対しても気さくで、裏表がないので人からは信用された。
新人が楽屋にはいり、隅でオドオドしていると、必ず私の方から励ましの声をかける。困っている人を放っておくわけにはいかないのである。
週刊誌でも不仲だとニセの報道をされた大ライバルが、口紅がないとあたふたしていたとき、思わず駆け寄り「私のでよかったら使って」
あとで彼女は、私のことをテレビで
「せいこさんにはお世話になりました。せいこさんって、妖精か人形みたい」と讃嘆してくれた。
アメリカでも私にアタックしてくる男性は、何人かいた。
日本とは違って、異性にはフランクであり、握手の習慣もある。
ときおり日本に帰国したが、やはり娘のさり奈がマスコミの餌食になるのを恐れて、転校もさせた。
私は夫の今田には非常に感謝していた。
しかしマスコミは、あたかも私が不倫をしているように報道していた。
この頃から、今田との間には隙間風が吹き始めた。
幸いなことに今田はさり奈を溺愛していたので、さり奈が私と今田を結ぶ唯一の絆となっていた。
しかしその絆もとうとう切れるときがやってきた。
私はアメリカでの活躍を選んだが、今田は私を家庭にいて、自分のサポートをしてくれることを望んだ。
離婚という道を選んだときでも、私は今田を責める気はさらさらなかった。
それは今田も同じ気持ちだったろう。
「せいこさんは、人間的はいい人でした。だから僕は、今でもせいこさんの悪口を聞くと腹がたちますよ。今でもせいこさんの好きだった演歌を、僕はくちずさみますよ」
そう、私の歌は希望を感じさせ、夢みるように歌い、相手に将来性を感じさせると言われていたわ。私は歌うことが何よりも好きだった。
歌は私にとって、酸素のようなものだった。
娘のさり奈は、歌手から女優、そしてミュージカル女優へと進化していった。
ミュージカル女優で主役になったときは、有名脚本家に
「私が有名人夫婦の娘だったからですか?」と尋ねたが、もちろんそうではないと否定されてほっとしたという。
さり奈の声は、私に似ていて、いや私よりもソプラノ歌唱は透明感を増していた。
さり奈の口癖は「いつも前を向いて生きよう。後悔だけはしたくない」
丸っきり私と同じね。やはりさり奈は、私の二代目なのかなと確信したほどである。さり奈は私にとっては、大きな誇りだった。
ある日、さり奈は仕事先のホテルで、飛び降り自殺した。
もしかして、神様がさり奈を一足先に、天国に引き入れたのかもしれないと思うほど、なぞを秘めた自殺だった。
私はさり奈の遺体に二十時間中追いすがり、号泣した。
いくら私がさり奈に頬ずりしても、さり奈は二度と息を吹き返すことはなかった。
しかしひとり娘さり奈が亡くなってからは、私は夢みることができなくなってしまった。私の命の半分を奪われてしまったものね。
さり奈の自殺の真相は、今もってわからない。
仕事も順調だったし、失恋が原因だというスキャンダルが、直接自殺の原因だったかどうかは今もって定かではない。
私はさり奈とは親子を超えた親友だと思っていた。
さり奈は私よりもしっかりしていて、最新のファッションのことを教えてくれたり、世間のことは私より遥かに把握していた。
ドラマのオーディションを受けるときも、松木せいこの娘だということを隠して受けたが、見事合格。
可愛くて綺麗で、礼儀正しくて、華奢で可憐な見かけよりもはるかに努力家で、さり奈を悪く言う人は誰もいなかった。
一度だけ、紅白歌合戦でさり奈と共演したことがある。
二人にとっては、大きな誇りだった。
今の私は、さり奈を思い出してしまうので、もう紅白歌合戦を見ることはできない。でもときがたつと、冷静になれると信じている。
思えば私は世間の闇とは無縁のところで、育ってきた。
もちろん芸能界できらびやかなトップの位置にいた私にも、いやがらせやスキャンダルがあった。
しかし、そんなものは世間の闇とは比べものにはならないものだった。
夢、希望、将来性が私の歌のテーマだったが、これからは、世間の闇に光をさしこむような歌を歌っていきたい。
もしかしたら、このことがさり奈への供養につながるのではないかと、思うようになってきた。
私は世間の闇を知るために、大阪のグリ下と呼ばれる地域に足を踏み入れることにした。
大阪は仕事ではテレビ局しか行ったことがなかったが、繁華街を一人で歩くのは初めての体験だった。
サングラスをかけ、帽子を目深にかぶり、松木せいこだということを極力隠していたが、ときどき振り返る人がいる。やはり一般人とはオーラが違うのだろうか?
夕方四時になると、二十二歳までの若者がカートやボストンバックを抱え、ネオンにたかる蝶のように集まってくる。
異様ともいえる光景だが、皆一様に、淋しさと孤独感を抱えている。
多分家庭では孤独なのだろう。こうして似た者同志、集まることによって、家族のような連帯感を求めているのだろうか?
そのなかで少し腰の曲がった、いかにもやつれた風情の中年女性に出会った。
私と同年代にちがいない。
いきなり「良治を返して」と言われたときは、びっくりした。
「あなた、もしかして松木せいこじゃないの?」
「えっ、違います。でも似ているとはよく言われるんですよ。
もしかして、遠い遠い親戚だったりしてね」
と精一杯ごまかしたが、やはり私と同年代の中年女性の目は、ごまかせなかった。
だって、私はその世代の人から注目され、あるときは応援して頂き、あるときはバッシングの対象になっていたのだから当然だけどね。
私は困っている人を見ると、放ってはおけない。
お人よし、不器用、かわい子ぶりっこ、あげくの果てにいい人ぶりっこなどと評されることはあるが、これは私の性格というよりも、両親の愛情を受けて育ってきた賜物であろう。
「もしかして、良治君というのは、十年前刺殺された子のことですか。
たしか当時、中学二年でしたよね」
私の記憶では、今から十年前、島から転校してきた純朴な少年が、地元の不良少年 竜太によって、刺殺されたというむごたらしい事件だった。
良治君は母子家庭であったが、バスケットボールクラブのスターでクラスの人気者だった。
良治君が夜の公園で遊んでいるときに知り合い、最初は兄弟のようにつきあっていた。竜太は、良治君に牛丼をおごったりしていたが、だんだん良治君に暴力をふるい、良治君をまるで自分の子分のように扱い始めた。
竜太から学校へ行くなと命令されて以来、二週間ほど登校をしていなかった。
良治君は、竜太からの暴力に対して無抵抗であり、誰にも相談しなかった。
ある日竜太は良治君に万引きを命じたが、良治君が断ると、良治君の左目に大けがをさせてしまった。
良治君の友人は、竜太に謝罪を要求したので、そのときは竜太は「すみません」と頭を下げた。
惨劇が起こったのは、それから三日後のことだった。
良治君は、いつものように弟の面倒を見ていた。
学校は不登校気味であったが、元気に家事手伝いをしていた。
母親がなぜ、不登校なのかいくら問い正しても口をつぐんだままだった。
母親がつくってくれたトーストを分け合って食べていると、竜太からスマホ連絡があり、母親が止めるのを振り切るように、良治君は外出した。
遼太がトーストにマーガリンを塗り、母親に「半分食べる?」と勧めたのが最後の会話となってしまった。
「あのとき、私が力づくでも止めていたら」と母親は悔やまれたという。
翌日の朝、川に浮かんでいる良治君の死体が発見された。
なんと顔も含めて、四十数箇所のナイフの傷跡があったという。
母親は追いすがって泣いたが、あとの祭りだった。
犯人は竜太と推定され、すぐ捕まった。
竜太はそのとき、未成年ながらマスメディアに卒業アルバムが掲示されていた。
竜太はもともと、優等生とは程遠いおとなしいいじめられっ子だったという。
定時制高校に進学したがすぐ中退し、アルバイトもままならない状況だった。
傷害事件を起こしたすぐ後で、良治と知り合ったという。
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