元トップアイドルせいこの未来
すどう零
第1話 あの日から私は強運から見放された
私は皆さんご存じのとおり、日本を代表する元トップアイドルだった松木せいこ。
この頃は二年間ほど、マスメディアからご無沙汰しているけどね、それまでは十八歳から二十四歳までの六年間ずっと、ヒットチャート一位という金字塔を打ち立てていたのよ。
まあ、それと比例するかのように、有名税ともいえるひどいスキャンダルに見舞われ、私の芸能活動は、マスコミとの闘いだといっても過言ではなかった。
初対面の人からせいこと呼ばれるのはすっかり慣れたけど、記者さんのインタビューと違う記事を書かれたときは、人間不信に陥りそうになったわ。
でも、記者さんが悪いわけではない。
いつも「すみません」と謝ってくれるものね。
いちばんの諸悪の根源は、その週刊誌の購買者よね。
デビュー当時は、同じ年にデビューしたライバルともいえる男性アイドルトキちゃんからのファンから、かみそり入りの手紙をもらったこともあったわ。
トキちゃんからの女性ファンを避けるために、なんと呼吸用に穴をあけた段ボール箱に入れられて移動したこともあった。
あるときは、トキちゃんのファンから階段から真っ逆さまに突き落とされたこともあったわ。
「ギャハハ、まっさかさまのバカせいこ」
そんな怒声のまじった嘲笑を浴びながらも、私は彼女らを憎む気にはなれなかった。多分彼女らは、日常生活に苦しみを背負っていて、その腹いせにそんな過激な行動にでたのだろう。
むしろ、彼女たちの将来が哀れなものに思えた。
私は、いわゆる苦労人ではなく、恵まれた高級サラリーマンの一人娘だった。
洋服でも人形でも、欲しいものはすべて買ってくれた。
高校はカトリックの女子高だったが、いつも父に車で送ってもらっていた。
私は高校一年のとき、なんと女神に選ばれ、人気者だった。
カトリックの女子高に通っていた高校一年のときに、歌手としてスカウトされたの。今はもう亡き父親は大反対し、親戚中にも白い目でみられたわ。
でも私は、歌手になりたいという夢だけは捨てることができなかった。
まあ、ひとつは都会に対するあこがれと好奇心もあったけどね。
しかし、二年がかりで父親を説き伏せてプロダクションに住み込みで入ることになったときは嬉しかった。
これからどんな成功とそれと引き換えともいえる苦労が待ち受けているか、想像もつかないままに。
最初はプロダクションの先輩が主演しているドラマに、出演することになったの。
そのときセリフがうまく発せられなくて、活舌がうまくいかなくて悩んだ末に、舌の一部を手術したの。
それからは、歌手としてデビューできるようになったときは、嬉しかった。
でも、レコードジャケットの写真の衣装は、なんと自分で原宿まで買いにいったのよ。まあ、この頃の写真といえば、いかにも田舎のお嬢さんといった感じだったけどね。
白いドレスを着て、初めて歌番組にでたときは出だしはまちがえるわ、タイトルも曲とあっていなかったので、急遽変更になるわと大変だったわ。
デビュー曲は、難しい曲ながらなんとかこなしたけど、二曲目の「白い珊瑚礁」が大ヒットしてから、殺人的スケジュールが始まったわ。
私はデビュー半年でスターの仲間入りを果たしたのだった。
ここからが私の快進撃の始まりだった。
しかしスターというのは、毎日グルメを食べて生活しているように思われがちだが、決してそうではない。
当時の食事は電子レンジなどなかった時代だったから、いつも冷たいお弁当だったわ。地方に行っても食堂で決まりきった、焼きめしやオムライスで腹を満たすだけ。
地方の名産を味わうなんて、そんな余裕は私にはなかった。
母には小さなウソをいくつもついたわ。
「私はいつも元気だよ。なにがあっても大丈夫だよ」
当時、公務員だった父は心配のあまり、髪の毛がたちまち真っ白になってしまったほどだったが、だからこそ、私はスターでい続けることが、御恩返しだと思ったわ。
スキャンダルは有名税だというが、私はそんなまやかしの言葉に屈してしまうわけにはいかない。
いくら週刊誌で大々的に書かれても、違うことは違うと断言した。
また所属プロには内緒で、ヘアスタイルを変えたこともあったわ。
カールしたショートカットは、せいこカットと言われて真似する女の子がいるほどだった。
そのヘアスタイルをベリーショートにしたりしたときは、所属プロはあせったけど、これがまた大うけしたの。
まあ、いつまでもマンネリ化は飽きられる原因よね。
それでなくても、アイドルは常にレタスのように新鮮でなければならない。
私にとって、スキャンダルは傷つくことでもあったが、同時に刺激剤でもあった。
あるときはスキャンダル通りの、またあるときはスキャンダルとは全く自分を演出することで、私は半年前とは違った自分でいられた。
女性のなかには、アンチせいこの人も多かったことは事実よ。
可愛こぶりっ子なんて呼ばれていたが、ぶりはいつかははまちに成長するもの。
私はぶりっ子の演技などしていない。いつも素のままでしかなかった。
それが大人になるにつれて、認められつつあったわ。
「ねえねえ、私たちこの前、仕事場で松木せいこに会ったの。
私たち、さんざんせいこをネタにして、からかってるやん。
「いつもネタにさせてもらってすみません」
こういうときって、普通の子やったら怒るやん。
でもあの子ったら、いつもの笑顔で『いいんですよ、いいんですよ。アッハッハッハ』ぶりっ子を通り越して、はまちっ子ね」
漫才ブームのとき、流行った私と同年代の女性漫才師のセリフ。
その漫才師も二年余りで消えてしまったけど、今でもなぜかコンサートには来てくれるの。感謝ですね。
まあ、批判をする人というのは、本人を細かいところまでよく観察し、興味がそそられるから批判も悪口もできるのよね。
その裏には人間同志、自分となんらかの共通点が感じられたからじゃないかなとも思うわ。
デビューして五年目に、中学からファンだった郷ひろきさんと付き合いだしたわ。
といっても、デートなどできるわけはなく、電話だけのつきあい。
彼は私に「芸能界を引退して、僕と結婚してほしい」とプロポーズされたけど、私にはそれはできなかった。
一生彼だけのために生きる人生などは、考えられなかったわ。
私の人生は私のものでしかなく、人生を切り開くのは私でしかない。
振り向かず前を向いて、後悔だけはしたくないの。
このセリフが、後に産まれて来た娘さりなが受け継ぐことになろうとは、そのときは夢にも想像できなかったわ。
後に私は、映画で共演した俳優今田まさしと結婚したの。
今田氏は、最初は私に冷たかったわ。
私が話しかけても知らん顔を決め込んでいた。
しかし、私が海外のロケ先で下痢になったとき、徹夜で看病してくれたの。
「お腹をめくって」と言われたときは、思わず恥ずかしいと言ってしまった。
こう見えても、楽屋では着替えのときはスタッフの前で平気で下着姿になっていたのに、なぜか今田氏の前では恥ずかしさを感じた。
今田氏は私に説教したわ。
「普通は、腹痛になった場合は、自分で薬を買いにいったり医者に通ったりするものだ。まあ、ここは海外だという例外はあるだろう。
君はいつもマネージャーや付き人に取り囲まれ、自分のことは自分で処理しようとはしない。こんなことで将来、どうするつもりなんだ!」
心配まじりの声で叱られたときは、思わず亡き父を思い出したわ。
今田氏は十三歳年上ということもあり、父のように頼りがいのある人だと確信した。この人についていきたいとその瞬間、決心したの。
今田氏は私の腹痛が回復したとき、レストランに誘ってくれた。
「君はイモ娘なんだから、じゃがいもスープが似合うよ。
食事も人生の楽しみのひとつ。残さずに全部食え」
という彼に従うことにした。
今田氏の好みは、スポーツのできるきれいな女性。
私とは程遠いが、私の底抜けの明るさに元気づけられたという。
今田氏は私を「せい太」と呼んだ。
今田氏とは結婚生活は、まるで陽だまりのような平凡な幸せがあった。
今田氏は私の手料理を完食してくれ、私の失敗ー今田氏のお気に入りのセーターをアイロンでこがしてしまったーも許してくれていた。
でも私は主婦に収まるよりも、やはり歌手である。
華やかなBGMと私だけを照らしてくれるスポットライト、そして客席からの暖かい拍手がほしいと願うのは、罪悪だろうか。
日本では新しいアイドルが出現している。
私は六年間で二十四曲連続ヒットチャート一位という金字塔を生みだしたが、それはもう過去のこと。
今度はアメリカで歌の勉強をしたい。
そう思っている矢先に、さり奈が誕生した。
今田氏のさり奈に対する溺愛ぶりは、そのまま私への愛情の裏返しでもあった。
今日から私は、松木せいこというよりは、さり奈のママ。
どんなことをしてでも、私はさりなを守ってみせる。
しかしそんな私を攻撃するかのように、マスコミはさりなを追いかけてきた。
私はさりなを守るために、さりなを実母に預け、アメリカに身を隠すことにした。
幸い今田氏はさり奈を溺愛していたので、その考えに賛同してくれた。
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