第18話 怒りの拳

 ――――何が起きた……⁉


 気づいたときには、すでに黒桐は拳を構えていた。

 彼とて、中堅冒険者の端くれ。修羅場は何度も潜ってきた自負がある。しかし、ここまで得体の知れない存在を相手にするのは、いくらなんでも初めてだった。


 見た目はただのくたびれた壮年の男。ダンジョンにいることすら不釣り合いに見えるほど、彼からは威圧感というものをまったく感じない。

 それなのに何故、自分は飛び出せずにいるのだろう。黒桐は、底なし沼に落ちたような、身動きのとれぬ息苦しさを覚えていた。

 彼はまさしく恐怖という感情に支配されているわけだが、その醜く歪んだプライドが、怯える自分を認識させないようにしていた。


「武器を放せ」


 春重が命令すると、黒桐の部下たちはすぐさま武器から手を放した。彼らの顔には、困惑と、恐怖の表情がくっきりと浮かび上がっている。


「なんだ……これ……」


「体が勝手に……!」


 再び武器を取ろうとしても、体が動かない。力むたびに、その力がどこかへと抜けていく。脳が下す命令を、体が拒否しているかのようだ。


「テメェら……! 何やってんだ! 遊んでねぇで今すぐそいつを」


「無駄だ。彼らはもう『主人』には逆らえない」


「しゅ、主人だと⁉」


「そして、それはあんたも同じだ」


 春重が手をかざす。

 すると黒桐は、恐怖のあまり思わず身構えた。


「こっちへ来い。そして跪け」


「ぐっ……⁉ な、何が起きてんだよ……⁉」


 黒桐の足がピタリと止まり、春重のほうへ歩き始める。

 頭では必死に抵抗するが、身体は一切言うことを聞かない。自分の意思が拒絶される。そのあまりの違和感に、黒桐は吐き気を覚えた。

 

 ついに春重の目の前まで来てしまった。

 黒桐の体は、命令通りに膝をつき、その頭を差し出すように傾ける。


「テメェ……! オレに何をしやがった!」


「……あんたみたいな、人の気持ちを考えられない人間を、一度でいいから思い切り殴ってみたかったんだ」


「あぁ⁉」


「ちょうどいい高さだ。殴りやすくて助かるよ」


「ぶゅ――――」


 春重の渾身の拳が、黒桐の顔の中心を捉える。

 拳が肉を打ち、黒桐の体は勢いよく地面を転がった。



名前:黒桐健司

種族:人間

年齢:25

状態:通常

LV:46

所属:黒狼の群れ

 

HP:831/1422

SP:607/607


スキル:『拳闘術(LV6)』『緊急回避(LV3)』『威圧』『攻撃向上』『防御向上』


 

「がっ……は……」


 鼻からおびただしい量の血が滴る。一撃で半分近くのHPが持ってかれた。硬直した体に、全身全霊の拳。衝撃を逃がすこともできず、ダメージはすべて黒桐へ余すことなく伝わった。


「……」


 春重は、血のついた己の拳を見る。

 人を殴ったのは、今日が初めてだった。モンスターを殺すときとは違う独特の嫌な感触が、まだ根深く残っている。

 それでもなお、彼は拳を握りしめた。


「立て」


「っ!」


 黒桐の体が、勝手に起き上がる。その際、彼が飲もうとしていたHPポーションが、手から零れ落ちる。器は音を立てて割れ、中の液体が地面に広がった。


「くそっ……!」


「本当は、伊達のことも殴ってやりたかったけど、あんたで我慢するよ」


「ま、待……! ぶっ」


 春重の拳が、再び黒桐を殴り飛ばす。

 この一撃にて、黒桐のHPは300を切った。


「はぁ……はぁ……」


 視界がぐわんぐわんと歪む。鼻が折れている。鼻腔の奥がパンパンに腫れて呼吸ができない。口の中に違和感がある。前歯がほとんど折れてしまったらしい。

 脳みそが揺れているせいで、黒桐の思考は途切れ途切れになっていた。意識を保っているだけでもやっと。手足に力が入るはずもなく、立ち上がることすら困難。

 濃厚な死の香りが、すぐそこまで漂ってきていた。


「ダンジョン内で探索者が死んでも、モンスターが食ってくれるから証拠は残らない……だったな」


「や、やめで……」


「あんたらが襲った人がそう言ったとき、ちゃんとやめたのか?」


「っ……!」


 地べたを這うようにして、黒桐は春重から逃れようとした。

 正規ルートに戻ることができれば、きっと他の探索者がすれ違うはずだ。他人の目があれば、春重も手を出すことは難しい。


 春重が逃げることを許せば、の話だが。


「止まれ」


「ひっ……!」


 再び黒桐の自由が奪われる。


「な、なんなんだよテメェ……! ただのルーキーじゃねぇのか……⁉」


「答える義理もないな」


「待てって……! そうだ、オレたちが稼いだ金ぜんぶやるよ! 武器も防具も! 逆にオレたちがあんたに貢いでやる! だから……!」


「そんなものに興味はない」


「……っざけんな! いいからオレを見逃せ! そいつらの命はくれてやる! だからオレだけは――――」


 言い終わる前に、春重は黒桐に立ち上がるよう命令する。

 もはや自立すらできないはずの彼の体は、操り人形のような不気味な動きで立ち上がる。

 

「何も殺すなんて言ってないだろ。その代わり、きちんと償ってもらうぞ」


「ああ⁉」


「ひとつ、二度と人を傷つけるな。ふたつ、夜が明けたら、ここにはいない仲間も連れて、全員潔く自首しろ。みっつ……時間が来るまで、被害者たちに許しを請い続けろ。擦り切れるまで、頭を地面にこすりつけてな」


「……はい」


 目が虚ろになった黒桐は、仲間と共にダンジョンを引き返していく。

 それを見送った春重は、壁を背にしながら地面にしゃがみ込んだ。


「はー……疲れた」


 春重の人生において、争いというのは無縁のものだった。

 相手がどれだけ悪人であっても、傷つけることには抵抗がある。その感情を無理やり押し殺し、春重はあえて彼らを苦しめるような手段を取った。当然、春重の精神はひどく疲弊した。しかし、それも『精神耐性』によってすぐに落ち着いた。


「疲労を感じなくなるのはいいけど……疲れ切ったときに入る風呂は、また格別だったんだよなぁ」


 どこか残念そうな苦笑いを浮かべつつ、春重は立ち上がる。

 

「行くか。阿須崎さんに報告しないとな」

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