第26話 闇の皇子は心臓を止めたくない
「ところでツバキ様はどうしてこの場所に? 同好の士とは見えませんが……」
エヴァンが再び竿を振る、
大きく輪を描いた糸が、川面へと吸い寄せられていった。
「アタシは散歩。考えごとがある時はいつもこの辺歩いてるんだ」
「左様でしたか」
「にしてもアンタは余裕だねぇ……試験前日に釣りだなんて」
「一応三年までの知識は詰め込んでおりますの……でっ」
水面が割れたと同時に、エヴァンは糸を張って竿を立てる。
針がしっかり食い込んだか感触を確かめつつ、手繰り寄せた。
「へぇ、上手いもんだね」
ツバキは思わず感嘆の声を漏らす。
「その変な竿で」
が、フライフィッシング愛好家を早口にさせる一言を付け加えてしまった。
「変な……竿?」
咳払いをして、一呼吸。
「いいですかツバキ様、フライフィッシングとは魚と人間の真剣勝負なのです。徹底的に自然を観察し、自分で作った疑似餌を使い、自分で選んだ糸で釣り上げる……そのために生まれたのが、この形状の竿なのです。ただ餌をつけて引っ張るだけの道具とは一緒にしないで頂けませんか?」
早口に気圧されるツバキ。
「悪い悪い、地元でよく見るのとは随分違ってさ」
冷静さを取り戻したエヴァンも小さく頭を下げた。
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。連合は海洋国家ですから……同じ釣り竿でも仕組みが別物なのは当然ですね」
「そうそう、リールの位置が上にあってね……何でも英雄様が考えたって話さ」
「連合は伝説の英雄と縁深い国ですもんね」
話は転じ、ツバキの故郷シェアト連合国の話題へ変わる。
「そうそう、風土が英雄様の故郷に似てるってんでね。だから時々あやかったりするんだ……アタシの名前だって変わってるだろ?」
「とても風流な響きですよ」
「……だね。アタシにはもったいないぐらいさ」
ツバキは照れくさそうに笑ってから、いつもの砕けた雰囲気に戻る。
「にしても……エヴァンにもムキになることってあるんだね」
「感情を押し殺す訓練は受けておりますが」
もう一度釣り竿を振るエヴァン。
毛鉤が水面を漂えば、すぐに魚が食らいつく。
「今日は休日ですからね」
「違いない」
顔を合わせず二人は笑う。今この時だけは、煩わしいいくつもの出来事が消え去っていた。
「……あんたも大変だよね、あんな凄まじいご主人様の侍従だなんてさ」
「いえいえツバキ様、貴方は盛大な勘違いをしています」
エヴァンは首を横に振る。
「勘違い?」
「はい。テリオス殿下は……決して『凄まじい方』ではありません」
「じゃあなんなの?」
「普通です」
がくっと肩を落とすツバキ。それでもエヴァンは小さく笑って、主について私見を述べた。
「朝はギリギリまで寝ていたい、食事は美味しい方がいい。隣の人が飢えていれば、どこか居心地が悪くなる。そして盗賊に村が襲われたなら、黙って見過ごすことはできない」
彼にとってテリオスは、歴史の教科書に乗るような偉人などではなかった。
「挙げ句の果てには従者でさえ、休日がないと気が気でない……『普通の人』だと思いませんか?」
ごく普通の感覚と、ごく普通の悩みを持ち合わせた、ごく普通の人間だ。
「確かに……そう言われたら一理あるね」
「ですが、その身に秘めた力は決して普通ではありません。だから僕は……あの人が日々を楽しく生きられるよう、心の底から願っていますよ」
何者にも縛られず、何者にも囚われず。
彼のささやかで困難な本当の願いが、いつか叶う日が来ると信じて。
――しばらくは無理だろうなと思いながら。
「へぇ……それが侍従の矜持ってわけだね」
「そんな立派なものではありませんよ」
当然だとでも言うように、エヴァンは肩を竦める。
その態度があまりにも眩しいから、彼女はつい目を伏せる。
「もしも、さ。自分のせいで大切な主を亡くしたら……どうする?」
それからつい、そんなことを聞いてしまった。
「それは」
エヴァンは言葉を詰まらせる。
けれどまたすぐ笑顔に戻って、釣り竿を川へと放った。
「殿下が死ぬところは想像できませんので、ちょっと」
「違いない。あんたには無意味な質問だったね」
無意味だと笑う従者を見て、やっぱり羨ましいなと思うツバキ。
「ところで……自分のこと『僕』って言うんだ」
だからつい彼に意地悪をしたくなったけれど。
「それはその」
年相応の、十五歳の少年らしい苦笑いを浮かべるエヴァン。
それでも陽射しに照らされた彼には、誂えたような言い訳があった。
「……今日は休日ですので」
◆
夕方、テリオスの私室へと戻ったエヴァン。
釣果は上々で、既にジョージに調理して運ぶよう頼んである。
「ただいま戻りました。釣った魚はジョージに届けて」
が、死にそうな顔をしたテリオスには魚など二の次だった。
「それよりもエヴァン君さぁ……フィオナとエリーゼが来るって知ってたら、昨日のうちに知らせておいてくれよ。いきなり来たから心臓止まるかと思ったぞ」
わざとらしい物言いをしながら、エヴァンの肩を掴むテリオス。
「それは死ぬかもしれなかった、という意味でしょうか?」
目を丸くしてエヴァンが聞き返す。
「当たり前だろ、男子寮にあんな美人が二人も歩いて入ってきたんだぞ」
そこでふと、朝方のツバキからの問いかけを思い出す。
――自分のせいで大切な主を亡くしたら……どうする?
年不相応の落ち着いた笑みを浮かべて、月並みな言葉を並べる。
「それはそれは……今後は気を付けないといけませんね」
フィオナに殺されると嘆く主の姿は。どこか幸せな日常のように思えたから。
◆
一方その頃、ダーレスは。
「……ま、オレにかかれば余裕だろ」
翌日の試験を完全に舐めてかかっていた。
地獄のような補習が待っているとも知らずに。
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