第25話 闇の皇子は過去を悔やまない

 昇り始めた太陽に、穏やかな水音を立てるせせらぎ。湧き立つ木々の匂いの中、彼は釣り竿を斜めに振った。


「――かかった」


 長靴を履き、渓流の中に立ちながら糸を手繰り寄せるエヴァン。脇に置かれた木桶の中には、今日の釣果が五匹ほど浮かんでいた。


「やはりこの場所にして正解でした」


 目をつけていた男子寮の裏山にある小川は、予想通りフライフィッシングに最適の場所だった。


 適度な水量と流れがあり、空からの目を遮る木陰。落葉樹、岩肌、水質、すべてが好条件だ。


「貴方もそう思いませんか……ツバキ様?」


 茂みに向かって声をかける。

 他人の気配には人一倍敏感なエヴァンが、来客に気づかないはずもなく。


「あはは……よく気付くよねぇ」






 寮の自室に女の子が……! 

 などとドキドキする間もなく、宣言通り粛々とテスト勉強をこなす三人。


 もっともテリオスは既に試験勉強を終えているので、教える一方だったが。


「しかし『知の試練』とは……普通に勉強すればそれでいいとは思いませんか?」

「けどさぁエリーゼ、英雄がアホだと格好つかないんだろ?」


 集中力の切れたエリーゼが、本を閉じて文句を漏らす。

 テリオスは彼女を窘めながら、フィオナのノートに視線を送っていた。


「んでフィオナ、そこの計算間違えてるぞ」

「本当だ……すいません私、教養って得意じゃなくて」


 次の試験は全部で五科目。


 文章の読解や簡単な計算を学ぶ教養、大陸の歴史や文化を学ぶ歴史、魔法の運用について学ぶ魔法理論、戦術や戦略を幅広く学ぶ軍事、最後に領地や国の経営について学ぶ政治。


「確かに面倒だよな……けど生涯役立つ分野だからな、しっかり覚えとけよ」


 将来人の上に立つ人間として、いずれも学ぶ必要がある分野だった。

 ちなみに実技分野は別にあり、学年が進めば専門的な講義を受けることになる。


「エリーゼ、そこの魔術理論のところだけどこっちじゃないか?」


 さらに目を走らせるテリオスは、エリーゼの間違いを見つけて指摘する。


「本当ですね……申し訳ございません、どうもわたくしは感覚に頼りきりなところがあって」

「そっちのほうが楽だけどさ、仕組みを理解すれば感覚もより研ぎ澄まされるぞ」


 テリオスはエリーゼの教科書を指差し、内容について丁寧に説明する。こんなことを昼まで続けていたものだから、当然女性陣の感想は。


「テリオス殿下って……教えるのお上手ですわね」

「ですよね! 学園長の授業よりわかりやすいですよ!」


 エリーゼとフィオナが素直に漏らす。

 正直なところ下心満載でやって来たふたりだったが、思った以上に勉強が捗っていた。


「ああ、昔」


 その理由は彼の前世にあった……のだが。


「昔読んだ本の主人公がさ」


 素直に話すわけにもいかず、取ってつけたように誤魔化すテリオス。

 彼は語る、あまり幸せとは言えなかった菱川友介の人生を。


「……そいつは貧乏で、母親は病気でさ。それでも人のために生きるんだって息巻いてて」


 貧しかった。母は入退院を繰り返し、ろくな蓄えは家になく。その家も六畳一間の安アパートで、壁が薄く隣の若夫婦の喧嘩がいつも響いていた。 


「それで集合住宅の隣の部屋に住んでた子供に勉強を教えてたんだよ」


 その若夫婦には子供がいた。友介より十ほど離れた少年は貧しさと両親からの暴力に苦しんでいた。


「その子供に同情してたんだろうな。そいつの両親はとんだろくでなしだったから」


 そこで彼は気づいた。これでは教えるのが上手い理由になってないなと。

 

「ま、まぁそれで人に勉強の教え方も学んどこうかなってさ」


 さらに取ってつけて、苦笑いで誤魔化す。内心は不審がられていないか不安だった。


「そのお話は……最後どうなるんですか?」


 最後。その単語がテリオスの胸に刺さる。


 彼の人生は本当ならば、あの病院のベッドの上で終わりを迎えていたのだから。


「まぁ、今のところは」


 天井を見上げる。あの古いアパートより広い部屋で、友人を招いて勉強をして。


「人生をやり直して……楽しくやってるさ」


 彼にとって慌ただしくも思い通りにいかない日々は、幸福と呼ぶに相応しい毎日だった。

 それでも前世の心残りがまったくないわけでもない。


「隼人、元気でやってるかな」


 離れ離れになった少年の行末を、彼は知らない。




 まだ、この時は。




「お待たせしましたテリオス様! ピザのお届けに参りました!」


 と、今度はノックと共に野太いジョージの声が部屋に響いた。

 念のため女性陣を隠してから、慎重に扉を開けるテリオス。


「ありがとなジョージ、ちょうど昼飯にしようかと……あっ」


 ここで気付く。昼食が一人前だと足りないんじゃないかと。


「悪いジョージ、追加で頼んでもいいか?」

「三枚だと足りませんでしたか? 確かに小さめですが」

「えっ、三枚も?」


 思わずジョージの持っているピザを二度見するテリオス。彼が器用に運んでくれたピザの皿は言葉通り三枚あった。


「はい、今朝エヴァン様に『どうせ友人が押しかけてくるから、色んな味を三枚用意して欲しい』と頼まれまして」

「いや、悪いこれで十分だ」

「本当ですか? 足りないなら百枚でも二百枚でも」

「大丈夫! ありがとう!」


 ピザを全部受け取ると、急いで扉を閉めるテリオス。用意された三種類のピザを見て、テリオスは苦笑いを浮かべた。


「まったく……エヴァンには敵わねぇなぁ」






 一方その頃、ダーレスは。


「あー……3か?」


 簡単な計算問題に苦戦をしていた。


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