第37話 予兆黒星 肆
深夜二十二時を回り、静寂が訪れた癸家。
そのリビングにあるソファに座りながら、テーブルに広げられた陰陽市の地図をただ呆然と眺めた後、仁は瞼を閉じた。
「…………」
夜ご飯を食べ終わってから、風呂に入り、各自部屋に戻っていった癸一家だったが、そこにいるのが何となく落ち着かず、未だに眠れないでいた。
そのため鬼脈の循環と精神統一を行っていたのだ。
体に呪力が馴染み、細胞一つ一つに呪力が染み込んでいく。その影響によって仁の体には、まるで血管のような黒い模様が浮かび上がってくる。
足、腕、体、そして顔。そうして呪力を馴染み終えた時、その黒い模様がスッと肌に溶けていった。
「……これと呪力の操作の何が違うか分かんねぇんだよなぁ」
鬼脈の操作も、ある種呪力の操作のはずだ。
しかし鬼脈と違って表に現れる現象が少ない。それこそ【四神印】が反応するというだけだ。
この四肢に刻まれた模様が呪力によって光を放つ。しかし【朱雀の加護】以外に何かが起こるということはない。しかも主に発動する【朱雀の加護】すらも赤く光って反応するだけですぐに光が失われてしまう。
これが魔法のように火の玉でも作れれば話は別なのだが、そんなこともない。
だから全く呪力の流れを掴みきれないでいた。
「ま、日課も終わったことだし。これからどうするか考えるか――」
子熊金のような者への対処法がまずは一番に考えなければいけない。
弓削の時も思ったが、陰陽師というのは己の目的のためならば手段を選ばないらしい。むしろ自分のことすらも手段に入っているように思える。
そして何よりも……女性が多い。
「やっぱり……【朱雀の加護】を上手く使うしかないよなぁ。全く言う事聞いてくれないけど」
願や祈も【朱雀の加護】を持っているため、力の使い方を聞いてみたが……この呪力を燃やし尽くす力は知らなかったらしい。
だが、誓さんから聞いて後々分かったがこの力は〝浄化の炎〟と言うようだ。
なんでも……【朱雀の加護】を持った者が覚醒した時に朱雀本来の力を使えるようになるらしく、それが加護を持つ者の最終地点なんだとか。
ようするに、俺は段階を飛び越えて最終地点にいるのだ。おかげでこの力以外に使うことができない。
願や祈みたいに物体に炎を纏わせることも、ましてや術に炎を組み込むことなんて出来やしない。
「…………誰か四神について教えてくんねぇかなぁ」
こうして日課を終わらせた仁は、テーブルに広げられている陰陽市の地図に視線を落とす。
「ま、取り敢えずはこれから覚えてくとしますか。どうせ明日……いや今日で四神について少しは分かるだろ」
四月九日――早朝。
日が昇ってまだ時間があまり経過していない、まるで夜になり変わる夕空
「ここが第一地区だから……あっちに行けば第二地区だったな。ま、今は第一地区からだな」
一眠りを終えて体力が戻った仁は、そんな早朝の時間からランニングに出かけていた。体に加護が刻まれてから睡眠時間がやたらと短くなってしまったため、一時過ぎには眠ったが起きたのは三時頃だったので着替えて外に出ているというわけだ。
リズムよく、そして鬼脈を解放している仁は陸上選手の全力疾走のような速度で街を走った。
陰陽市というのは、そもそも大江山に作られた
入口は地区ごとにあり、その地区のまとまりは第四地区まで区分されている。
各地区ともに陰陽寮が設置してあり、所属によって住む地域が違う。
この第一地区というのは、〝癸〟の地区であり【玄武】の地区である。だからこそ、誓を含めた【玄武】に所属する人たちが第一地区で生活しているというわけだ。
ちなみに陰陽師の総人数は四百人程度。その中の未成年の人数はおよそ百人にも満たない。
それに成人すれば加護によって住む場所がことなるため、最終的には願と祈は誓たちとは別の第三地区に住むことになるらしい。
「(あ、コンビニ元に戻ってる)」
大江山
「そして……ここが修練所入口」
見上げるほど大きな鳥居。そこにでかでかと達筆な文字で書いてある修練所という文字。ここを通ると、陰陽寮から入れる修練所に行ける。
陰陽寮に入らずとも修練所に行けるのは嬉しい限りだ。
いつでもどこでも鍛錬が出来る。
「(『八咫烏』……ここ美味しかったなぁ、また来よ)」
星蘭に連れて来てもらった陰陽市の喫茶店。
メニューの種類もかなり豊富で、様々な料理やデザートが用意されていた。地図によると喫茶店『八咫烏』は第一地区から第四地区の全てに存在しているらしく、陰陽市限定のチェーン店のようだ。
ちなみに値段は分からない。「ご馳走様でした」と手を合わせた時に店員が来て流れるように外に連れて行かれた。扉のオープンの文字がクローズになったことは言うまでもないだろう。
「そして、ここ治療所がある場所だったな」
前回、本当にたまたま結と出会った場所。
そこは第一地区の治療区だった。
ここに住んでいる者は、何かしらの怪我や病気など呪いから受けたものを治療する場所のようだ。
【玄武の加護】を宿した者が暮らす地域だからこそ、ここに治療所を作ったのだろう。当然、紫医院もここにある。
「さて、昨日来た場所は見回ったし帰るかぁ……」
――ようやく、第一地区を巡回し終わり癸家に帰還するために走りだす。
まるで夕焼けのような空も、今や朝焼けによって真っ赤に染まっている。光も強くなっており仁の影が徐々に伸び始めた。
◆
その瞳には空を埋め尽くす黒い星々が視えていた。
この呪力に覆われ始めた空を見れる者は、この陰陽市に一人しかいない。
「分かりやすく……順調だぁ」
【青龍の加護】を覚醒させ、世界のありとあらゆる事象を可視化することが出来る瞳を持つ――〝青龍〟右龍燐である。
「ようやく、この皺くちゃなこの体から……おさらば出来る」
そう呟いては、この年老いたこの体を眺める。
その瞬間――――右龍燐は、体に刻まれた【青龍の加護】に呪力を流し込んだ。
すると、この年老いた皮だけが溶け落ち、張りのある若々しい姿へと肉体を変化させ始めた。
武具を振ってきた証拠が刻まれた大きな手のひら、浮き上がる筋力、髪も黒く戻り、体からあらゆる皺が剥がれ落ちる。
そして何よりも変わったのは容姿であった。
肌に突き立てただけで肉を突き破りそうなほど鋭利な爪。
四肢を覆う青色の龍鱗。
彼の瞳は黄金に似た輝きを放ち、黒目の部分が蛇のよう縦に細くなる。
血液の代わりに呪力が流れ、一気に存在感が膨れ上がったように見える。
「分かりやすく厄介なのは……まぁ、晴明と鬼神だな。あいつらがこれからどうなるかによっては計画が前倒しになっちまう」
今代の晴明である、安倍星蘭。
そして星蘭にしか扱えない鬼神の後継者、鏑木仁。
加えて、その2人に関わる数名の陰陽師たち……。
「四月の終わり、その時に一体陰陽師はどうなっているのか……。はっ! それは俺が知ることじゃねぇか。どうせ全員こういう体になっちまうんだからなぁ」
まるで強風によって晴れた霧の如く一瞬にして呪力の流れを停止させると、右龍燐の体は先程までのヘラヘラと笑うような老人の姿へと変わっていた。
「まぁ、今日は
右龍燐がその場から離れた時、第二地区の天候に日が昇りきっていた。
朝焼けが街を照らし、黒く靄がかかる薄暗い空が晴れ渡る。
そして、人が目覚めることで少しずつ雰囲気に生気が溶け込み始めた。
それが、陰陽市の始まりの合図でもあり――――
これから始まる開戦の狼煙でもあるのだ。
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