転落死ごっこ
「やっほっほーい」
間延びした声とともに、子どもの幽霊がマンションの屋上から元気に飛び降りて、落下していきます。九階建てです。生きた人間なら死んでもおかしくない高さです。重力から自由な幽霊もこの世にはいるのかもしれませんが、いま飛び降りた子どもの幽霊は、重力から自由ではありませんでした。まるでこの世に存在しているかのように落下していきますが、もちろん幽霊なので、本当はこの世には存在していません。マンションの屋上にはもうひとり、片隅に座って本をめくっている子どもの幽霊がいました。
飛び降りた幽霊がマサシ。本を読んでいる幽霊がヤスシです。ふたりともとっくに死んでいました。もはやこの世に存在していません。重力から自由ではありませんが、社会からは自由です。生きる必要はありません。世界がそこにあるというだけで、ふたりは本当はここにはいないのです。
「よっほっほーい」
屋上まで駆け上がってきたマサシが、そのまま一目散に柵を越えて、くるくるまわりながら飛び降りていきました。紐から解き放たれた愉快な
幽霊のくせに、重力から自由ではないし、地面や壁をすり抜けたりもできません。でも、ふたりにとってはその方がよかったのかもしれません。だからこうして飛び降り遊びもできるし、本を持ち歩くこともできるのですから。ずっと空中に浮いていたりしたら、地球の自転についていくのも一苦労、なにもかもに
「へーい、ヤスシ。おまえも死なないかーい?」
と、陽気に言いながら、マサシは親指を立ててにっこり笑いながら、屋上から飛び降りてヤスシの視界から消えました。
ヤスシはページをめくりながら、その誘いについて考えました。
落ちたマサシは、もちろん地面に激突しています。当たりどころが悪いときは、骨が皮膚から突き出たり、頭蓋が盛大に砕けたり、めちゃくちゃです。でも、マサシは幽霊なので、この世に存在していないので、これ以上死ぬこともないのです。ぐちゃぐちゃになったとしても、一瞬後にはへっちゃらです。痛みはありますが、あるだけです。切り離されていて、無関係です。だから、そんなの平気です。痛みを楽しんですらいます。それが遊びの醍醐味なのです。
「いまはやめておくよ。本が読みたいから」
ふたたび屋上まで駆け上がってきたマサシに、ヤスシはそう答えて、読書をつづけました。
「あ、そう。死ぬより楽しい本なんてあるのかな?」
「まあ、あるよ」
「ひっひっふっひー」
ヤスシとの会話もそこそこに、マサシはご機嫌な調子で落下していきました。飛び降りがすっかり気に入っているようです。馬鹿と煙は高いところが好き、無邪気な幽霊は高いところから飛び降りるのが好き、マサシとヤスシは死で遊ぶのが大好きなのです。
ヤスシはページをめくり、文字を眺め、声を聞き取り、言葉を刻みました。存在しない胸に、死んで久しい魂に。
そのあいだも、どたばたどたばた、マサシが走りまわり、屋上から飛び降り、好き勝手、自分勝手、死に放題に、気ままにはしゃぎまわる物音が聞こえていました。その音は、ヤスシにとっては心地よい環境音でした。読書にぴったりの音楽でした。
そうしてしばらく時が経ち、日も暮れようとする頃に、相も変わらず駆け上がってきたマサシが、不思議そうな声をあげました。
「あれ? なんだこれ? おい、ヤスシ。ここ、だれか来たのか?」
「え?」
言われてヤスシが顔を上げて見てみると、屋上の一角に、綺麗に揃えられた靴が置かれていました。
「こんなの、さっきまでなかったよな?」
「そうだね。言われてみれば」
「だれが来たんだ?」
「さあ……。本を読んでいたから、気がつかなかったよ」
「なんか入ってるぞ」
マサシが言うとおり、靴には封筒がねじ込まれていました。ちらりと覗いてみると、封筒のなかには数枚の便箋が入れられているようです。
「これって……遺書じゃないか?」
「なんか、それっぽいね」
柵から身を乗り出して、マサシは下をうかがいました。
「おい、だれかいるぞ。あれってたぶん、死んでるよな」
「うん、そうだね。死んでるっぽいね」
マサシの隣から身を乗り出したヤスシも、遠目にその死体を見て、同意しました。どうやらだれかが自殺したようです。物音がしても、どうせマサシの飛び降りだと思って、ヤスシは気がつかなかったのです。
「あーあ、せっかく俺の飛び降りスポットだったのに。なんか、冷めちゃったな。なに死んでんだよ、こんなところで。場所を変えるか」
「うん、いいよ」
ふたりの子どもの幽霊は、その死体とは別の方へと歩き、柵を乗り越え、手をつないだまま飛び降りて、重力に任せて落下していきました。マサシは即興の鼻歌を歌いながら、ヤスシは片手で開いた本を読みながら。
死者の手紙は、まだだれにも読まれていません。
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