第41話 天啓
「やめろぉぉぉぉぉぉ!!!」
執務室にアル公爵の叫び声が響き渡りました。
机上の書類が飛び散り、文鎮が音を立てて床に落ちます。黒い飛沫を撒き散らしながらインク瓶が転がりました。
アル公爵は机の上に横たわるように身を乗り出し、ワインボトルを抱きかかえています。髪が乱れ、必死の形相です。
「閣下! いかがされました?!」
秘書のマーシャルさんが部屋に飛び込んできます。
「大丈夫です。わたしはもう帰りますので」
机の上に這いつくばる公爵を見て、言葉を失っているマーシャルさんを安心させるように言いました。
「僕のものだ……、宝は僕のものだ……」
アル公爵は肩で息をし、私を睨めつけながらワイン瓶を抱きしめています。
「署名してもらいます」
ランカスターさんに頼んで書いてもらった誓約書を取り出します。
その内容は、まさに即座に嫌がらせを中止し、私の人生に関与しないことを法的に拘束する文言で構成されています。そして、署名をもって今地下室にある物をダリウス公爵に渡すと入れていました。
宝の引き渡しは、クラブの開店の一週間後にしています。
「モーリント伯爵、証人として署名いただけますか」
「私の手紙が原因の一つです。協力させてください」
伯爵はインク瓶を拾い上げ、羽ペンで流暢にサインを入れてくれました。
ズイッと公爵に差し出します。
「アル公爵、署名を」
「アルヴィン……」
伯爵の催促を手を上げて止めます。今の彼は、伯爵の声は届かないでしょう。
モーリント伯爵の手から羽根ペンを受け取り、インク瓶に浸します。
「アル公爵、署名するべきです」
肩で息をしながら怒りに満ちた視線を私に向けます。視線に熱量があれば、誓約書は瞬く間に燃え尽きていたことでしょう。
次の瞬間、私の手から羽ペンをもぎ取り、公爵は書きなぐるように署名をしました。焦げ付くような焦りと熱い怒りがインクのシミとなって表れ、一筆一筆が激情の証のようです。
羽ペンの軋むミシミシと云う音がここまで聞こえてきます。
荒々しい署名を確認して、盛大に倒れた吸い取り砂の瓶から粉をかけてインクを乾燥させます。
「マーシャルさん、港町の関所宛てにわたしのクラブの貨物を開放するように連絡してください」
マーシャルさんにもう一通作った誓約書を渡しながら言います。
「え、あ……」
「言うとおりにしろマーシャル!!」
その時、頭の中にサーシャ様との会話が甦りました。
――私は4ヶ月、メント神殿で天啓を受け取りました。――
思わず天を仰ぎます。
「――『屋敷に隠されし家の宝を得よ』」
全ての音がなくなり、シンと部屋が静まり返ったのを感じました。
「て、天啓か?!」
アル公爵が掠れた声で呆然と言います。
ハッと我に返り、周りを見回します。部屋中にいる全員がポカンと私を見ていました。
これは私の天啓ではありません、サーシャ様が受け取った天啓でした。
なるほど、公爵はサインをするしかなかったのですね。
やはり聖女の天啓は特別なものです。そして、やっぱり私は落ちこぼれ聖女でした。私がカルミナの誓いを破り、嘘をついたのも全て織り込み済みだったのです。
思わず笑みが浮かんできます。
「『させば人道に外れず』――アル公爵、少しは正しい事をしたようですね」
公爵は今も机に突っ伏したまま、私を睨みつけています。
髪も乱れ、目も血走り、上等な服は飛び散ったインクで汚れています。もはや、かつての自信に満ちた高慢な面影はありませんでした。
もうここには用はないでしょう。
「さよなら、アル公爵」
*
王宮の門をくぐると、ランカスターさん大橋の前で待っていました。
「よぉ」
馴染みのある声に、一気に身体の強張りが抜けます。お屋敷を出てから初めて息ができたような気分です。
「終わりました」
笑顔で誓約書を差し出します。
ランカスターさんがホッとした顔で書類を広げました。
「モーリント伯爵もいたのか!」
「とても礼儀正しい紳士でした。公爵に文句を言いに立ち寄っていたようですね」
「よくやった!」
肩をバンバンと叩かれます。これは、下街独特の親愛表現なのでしょうか。私も順応しなければいけません。
「さっさと帰ろうぜ」
そのまま肩を抱かれ、グイッと引き寄せられたまま歩き出します。
「で、どうやったんだ」
少し声を潜めてランカスターさんが言いました。
「汚れ仕事を引き受けてくれてありがとうございます。大変だったでしょう」
「俺の法学知識ではあれは汚れ仕事に含まれない。ただの肉体労働だ。あと、俺の遵法精神にも抵触しない」
ランカスターさんに頼んだお仕事は誓約書を作ること、もう一つは地下室からワインボトルを半分私の部屋に運ぶことでした。
誓約書には『今、地下室にある物を全て渡す』とありますから、公爵はワインの半分を受け取ることになるでしょう。
地下室から4階の屋根裏まで、何十本もワインを持って往復するのは大変だったはずです。
そして、宝石箱は私の部屋のチェストの中です。
手紙も読めない子孫に渡るより、聖女様も納得してくれるはずです。
「残りは保険です。また何かやらかしたら、再発見を装いましょう。その前の弁護士の方の選定はお任せします」
ランカスターさんがニヤリします。
すぐに真剣な表情に戻りました。
「それは良いんだよ。で、どうやったんだ。あんな価値のないワインを喜んで受け取るヤツはいない」
「モンテヴェル産のワインって、とても価値あるんですよね?」
「飲めればな。あのワインは完全に傷んでいる。コルクを見れば誰だってわかるだろ」
「コルクを見れば、ね。公爵に見せたワインはわたしが封蠟したものです」
ランカスターさんがポカンと口を開け、そして閉めました。
ここまで驚いている彼を見たことがありません。ランカスターさんの先を行くのは良い気分です。
ランカスターさんは言っていました。これはもう飲めないと。
この時代のコルクじゃ100年も持たない、と。
ただし、封蠟されていたら別の話です。何百年も持つものもあるのでしょう。
公爵に差し出したワインは、私の執務室の机上にあった真新しい封蠟を溶かしてかけたものでした。
最後に塵をふりかけると、それなりに見えました。幸い古い屋敷に住んでいるのでホコリなら手の届く所にいくらでもあります。
「たしかに……封蠟したモンテヴェルのワインなら……一財産……」
「モーリント伯爵がいて助かりました。公爵がワインのボトルの文字を読めないんじゃないかとヒヤヒヤしましたから」
私達を追い越すように、馬車がガラガラと横を通り抜けます。
「噂をすれば、モーリント伯爵の馬車だ」
馬車は大橋を抜けると、真っ直ぐと下街の方に向かっていきました。
きっとギルドの集会に行くのでしょう。彼の誠実さをもってすれば、グランド・ブールバードの一騒動も収まるはずです。
もう一安心です。
「そういえば、モーリント伯爵もプレオープンに出席したい言ってましたよ」
「え、あの人ストリップに興味無さそうだけど。めちゃくちゃ真面目な方だし」
「もう欠席の返事を出したらしいのですが、気が変わったようです」
「席空けるかぁ~。証人の恩もあるしな。俺の事覚えてなければいいけど」
帰り際、伯爵がランカスターさんによろしくと言っていたのは、伝えるべきでしょうか。
2人が出会う夜を想像して微笑みます。ランカスターさんは少し気まずいでしょうが面白そうな場面です。ここでは秘密にしていきましょう。
「あ、早くミトにも知らせないと! あの子、今夜倉庫で寝ずの番してくれるはずです」
「屋敷帰ってその誓約書を金庫にしまったらな」
「早く帰りましょう! なんで馬車を待たせておかなかったんですか?」
「いつ帰ってくるかも分からんヤツを待ってたからだよ。下手すりゃ逮捕されたかもしれないんだぞ。それに金がねぇんだよ」
ゴーンゴーンと日暮れの鐘の音が響きます。
王宮の大聖塔の鐘の音は、屋敷や下街で聞く音とは全く違っていました。
厳格で荘厳な音色です。
思わず振り返って、夕日に輝く白壁と、その奥に見える大神殿を見上げます。何年も暮らしていた場所ですが、今では見知らぬ世界のようでした。
「王宮に未練はないのかぁ?」
ランカスターさんが声を上げます。
もちろん。ありません。それは即答できます。
「ありません、わたしは今はストリップクラブのオーナーなので」
「君はよくやったよ」
肩に置かれたランカスターさんの手をトントンと叩きました。まだバシバシと叩けるほど俗世に慣れていません。でも、何事も少しずつです。
「泣かせないでください」
「まだ泣くのは早いぜ。オーナー」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます