第8話 劇場にて
支配人さんに案内された席は、最上階角の豪華なボックス席でした。
5人ほど入れる個室になっており、広々としたソファと豪華なテーブルが付いています。
「こちらにどうぞ」
「あ……あの、わたし無一文ではないのですが、こんな立派なお席のお値段払えません」
「これはわたくし共からのサービスです。急に空きが出た予約席なのでご遠慮なく。暁の聖女様がご覧になっていただけると、役者共も喜びます。公爵との婚約解消、わたしく共も大変残念に思います」
長ソファに案内され、ストンと腰を下ろしてしまいます。
「お、お気遣いありがとうございます」精一杯頭を下げることしかできません。
「どうぞ、ごゆっくり観劇なさってください」支配人さんはもう一度一礼してにっこりと微笑むと煙のように去っていきました。
入れ違いでボーイさんがカートでお料理を届けてくれます。
「こちらはサービスです。ようこそ、暁の聖女様」
ポンっとお酒を開けてくれました。
細長いグラスを恐る恐る受け取ります。シュワシュワした甘いりんごの香りがする軽いお酒でした。初めて飲む味です。
すごく気に入りましたが、一人でボトル1本はさすがに飲みきれません。
一人で豪華なボックス席に座って、聖女時代は口にしたこともない美味しいお酒を飲んでいます。なんだか夢を見ているようです。さっきまで入り口のソファに座り込んでゲンナリとしていたのとは大違いでした。
ボックス席からは劇場全体がよく見渡せました。
着飾った方々で客席全体が色の洪水のように輝きにあふれてます。
貴族の方々の何人かと目が合いました。劇場全体がざわめているように感じます。
劇場は社交の場になっており、誰が誰と来ているだとか、なにを着ているかだとかを噂話に花が咲きます。
今夜は私もその噂に一役買っているでしょう。
公爵と来た時は右のボックス席によく来ていました。もしやと思い目を向けると――いました。
公爵とサーシャ様でした。
2人は仲睦まじくおしゃべりしています。私には気付いた様子はありません。
なるほど。ざわめきの正体はこれでしたか。グビリとお酒を飲みます。
とはいえ、彼らに対してやることは特にありません。チケットを無効にされた恨みは少々あるのですが、さすがに相手もノコノコと私が来るとは思ってなかったでしょう。
私に送ったチケットは払い戻して、今度はサーシャ様と観劇ですか。婚約破棄して正解のようです。
こんな時は無視に限ります。私もカルミナの誓いを立てた元聖女です。怒りを通り越して呆れ気味ですが、マイナスの感情は引きずってもいい事はないと聖典にも記載があります。
小皿に並べられた軽食を堪能することにしましょう。劇場の楽しみと言ったら、観劇とボックス席で食べるお料理です。
ボーイさんがずらりと並べてくれた銀の皿をじっくり観察しました。
食べやすいように金のピックが刺さった小エビのフリット。
チーズ風味のクリームと魚卵が添えられたクラッカーには胡椒がアクセントに効いています。
カリカリに焼かれたナッツがまぶされた小麦のステック。
カニ風味のフィリングがたっぷり入ったタルトレットは大好物の一つです。
修道院でも神殿でも質素な食事をしてきたので、こういった輝くようなお料理は心が踊ります。
下町のお料理もホッとするしみじみとした美味しさがあって大好きですが、キラキラとしたものを食べるのも大好きです。
お気に入りのタルトレットからいただきます。
一口頬張ると口いっぱいのカニの風味が広がります。とてつもなく美味しいです。
私のストリップ酒場でもこんなお料理を出したいです。キラキラして、小ぶりで最高に美味しい軽食です。
となると、お客さんはここにいるような上流階級の方々がいいでしょう。アラン君のお店とも客層が被りません。あの素敵なお店のお客さんを取り合うのは避けたいです。
客席の照明が落とされ開始のベルがなりました。
ワクワクと美味しさで惨めな気分は吹き飛びました。
その時、あるひらめきが私の中で弾けました。ごくりとタルトを飲み込みます。
劇は素晴らしく、心から楽しめました。ただし、頭の中は思いついたことで一杯でした。
*
夜11時をつげる鐘の音がどこからか響きます。
私は劇場の裏手で街灯の横を陣取りずっと待っていました。
さすがにこの時間になると春でも肌寒く感じます。
ただ、諦めるわけにはいきません。
劇場の裏口は裏通りに面しており、オイルランプの街頭が心なく揺れ、薄暗いです。劇場の華々しさと一変して木箱が山のように積まれ、ゴミゴミとしています。
遠くで酔っ払いと犬の鳴き声が響き、大通りの華やかなざわめきが遠くから聞こえます。
さすがに心細く感じます。
裏口からは出入りの業者や役者さん達が帰り始めていました。
ありがたいことに誰も私に気付いてはいません。
そろそろ日付が変わろうという時、待っていた人物が現れました。
「ランカスターさん!」物陰から飛び出した私にびっくりしたようで、ランカスターさんは一歩後ずさりました。
席を用意してくれた支配人のランカスターさんを待っていたのです。
怪しい者と思われないように街灯の明かりがあたる所に移動します。
「ん? ……あ、聖女さまぁ?!」
「わたしく、ルゥ・カレンセイと申します。暁の聖女やっていました」
「あ、はい。知ってる……」
「あの、折り入ってお礼を」
「え、あー……」
ランカスターさんは困ったように頭をかいています。
揺れるオイルランプの下でランカスターさんの全身が浮かび上がります。劇場で見た時とは大違いです。麻のシャツを着た地味な服装で、お仕事中はきっちりまとめていた髪は下ろしています。
大きな荷物を抱えていました。
「いや、まあ。今日のとこはサービスってことでさ。聖女さんも劇楽しめたし、料理も無駄にならなかったしでいいでしょ」
少しくだけた口調です。お仕事中の姿は随分しっかりとした年上に見えましたが、声も若々しく私と年齢があまり変わらないかもしれません。
「というのは口実でして」
「え?」
「ランカスターさん、わたしのところで働きませんか?」
「はぁ?」
私は指を立て一歩前に身を乗り出しました。
「引き抜きです!」
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