第7話 劇場に行こう
気づけば丸窓から差し込む光も低くなり、部屋全体が赤く染まっています。ポーンポーンと日暮れを知らせる鐘が聞こえてきました。
ベッドからガバリと起き、スカートのシワを伸ばします。
大きな姿見を見ながら、エプロンをはずしホコリを入念に払います。
悪くはない……はずです。
着ているのは濃い青のワンピースで、銀糸で星模様の刺繍がされています。お揃いで星模様の織りが入ったドレスシャツを合わせました。私の瞳の色が映えるような気がする、お気に入りの組み合わせです。
長い髪は邪魔にならないように、編み込んで横に流しています。
今夜はアル公爵が送ってくれたチケットで観劇することにしました。
いくら私でも、元婚約者から贈られたチケットでのこのこ行かない方がいい理由は100は思いつきます。
それに、社交界のど真ん中に飛び込んで人々に噂されるのは嫌なものです。
ただ、王立劇場での劇を見逃す手はありません。
劇場の華やかな雰囲気も大好きです。
今私に必要なものは夜光亭のストリップショーか、観劇なのは間違いありません。
夜光亭はいつでも行くことができますが、劇のチケットはすっぽかすわけにはいきません。空席があると役者さんが悲しみます。
先日公爵にも啖呵を切りましたし、ここで余裕たっぷりの堂々たる姿を見せつけるのはいい考えのような気がします。
勢いは大事です。
ヒソヒソ笑いくらいは大丈夫。嫉妬と考えます。
「よしっ」
パチンと頬を叩いて出発です。
*
「このチケットは無効です。払い戻しされています」
淡々とチケットカウンターのモギリの方が言いました。
「え」
「残念ですが、入場することはできません」
「はらいもどし……」
係の方は気の毒そうに頷きました。
「一度予約を取り消されているので……」
――――ああ、つまり公爵は私に送ったチケットを無駄にしないようにしたのですね。
呆然としてその場を離れ、片隅のソファに座り込みました。
自分の愚かさにクラクラします。お人よし、まったくその通りです。
そんな訳で、私の観劇作戦は一瞬で終わってしまいました。
王立劇場の玄関ホールは華やかでした。
巨大な大理石のアーチ状の玄関ホールの中央から、豪奢な二股の階段が伸びています。
真鍮の鈍い輝きを放つ何個ものシャンデリアと、精霊をかたどった石彫の燭台があたりを輝かせています。
毛足の長い真紅の絨毯を着飾った貴族の方々が楽しそうに進んでいました。
ウキウキした気分はしっかりしぼんでしまいました。
当日券は売り切れですし、空いてたとしても私の手持ちのお金だとなかなか勇気がいる金額です。
ぼんやりと階段を進む男女を眺めます。何人か私に気付いたようで、目を細めてジロジロ見ています。嫉妬しているようには見えません。
家にいたときの威勢はまったく無くなってしまいました。
ため息をついて、そろそろ帰ろうとした時、穏やかな声に呼びかけしました。
「暁の聖女様、どうかなさいましたか?」
顔をあげると、劇場の男性が心配そうに私を見下ろしていました。
モギリの方より豪華な真紅の制服で金の飾り紐を付けています。
背の高い方でしたが威圧感はありません。黒髪をキッチリと整えて硬い印象ですが、花茶色の瞳はわたしを気遣っているように優しげです。
「その……もう、帰るところです」
婚約破棄された相手から贈られたチケットを使おうとしたら駄目だったのです。と言えたら楽でしょう。言ってみる? でも、この方に言ったところでもう一度惨めな気分になるだけです。
「わたしくはこの劇場の支配人、ランカスターと申します。なにか問題でも?」
優しい低い声に慰められます。
「婚約破棄された相手から贈られたチケットを使おうとしたら駄目だったのですっ!」
気づいたら一息で口から出ていました。
「……?!」
支配人さんは一瞬驚いた表情を浮かべましたが、すぐに真剣な顔に戻りました。
あーあ、言ってしまいました。もうだめです。堰を切ったように言葉が溢れ出します。
「チケットを無駄にしたくなくて来たのはいいのですが、払い戻しされて無効になっていました。そりゃそうですよね。婚約破棄した相手のチケット代を払う義理なんてないですし。まったくなんでそんな事に気づかなかったのでしょう。というわけで、ものすごく惨めで、自分のお人好し具合にうんざりし始めたところです。でも、これがわたしの性格ですし、人をどう疑ってよいのかわかりません。他人は変えられないが、自分は変えられるという聖典のお言葉がありますが、どうすれば変われるのでしょうか? 変えたいとも思っていない場合は? 公爵はわたしを裏切りましたが、わたしも皆様の事を裏切って人生を進めば自分のお人好しにうんざりしないですむのでしょうか? でもそれってとても不誠実ですし、疲れそうですし、大変だと思いませんか? それにそんな生き方で素晴らしい劇を楽しめるとも思えません」
一気に言います。支離滅裂です。
「――そうでしたか。それは残念でしたね」支配人さんは親切に付き合ってくれました。
そうです。それしか言えないですよね。
警備員を呼ばれる前に退散したほうが良さそうです。
「なので、もう帰ります……」
フラフラと立ち上がります。
この時間でしたら馬車を見つけなくても、歩いて帰れるはずです。
「お待ちください。暁の聖女様」
支配人さんがにっこり微笑んで言いました。
「席をご用意できますよ」
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