第14話:愛する彼女との一時を

 藤平の現在の住居は、実家より少し離れた高層マンションの一室だった。

 最上階からは町全体が一望でき、その景色は正しく絶景の一言に尽きよう。

 長らく住み慣れたそこは、いわば都と言っても過言ではない。

 都ならば心も安らごうものだが、現在の藤平に安らぎは微塵もなかった。



「…………」



 ぼんやりと天井を眺める。

 特に何かするわけでもなし、ただひたすらにぼんやりするのみ。

 時間だけが、ただいたずらにどんどん過ぎ去っていく。

 現状がよろしくないのは、さしもの藤平とて百も承知だ。

 だが、現状維持では事態の解決にならないのもまた然り。

 いったいどうしたものか、と藤平はひどく頭を悩ませた。

 しばし悩んだ末、藤平が手にしたのはスマホであった。

 とにもかくにも、心に平穏をほんの少しでも取り戻したかった。

 それを可能とする人物を、藤平は一人しか知らない。



「――、もしもし?」


『あ、もしもし? いったいどうしたの?』



 受話器越しより聞こえる最愛の人の声に、藤平の口からは安堵の溜息が深々ともれた。


 恋人に対して弱い一面を晒すことを、藤平は恥と認識している。

 彼女は自分がこれからも守っていかねばならない。

 そう思っているのであれば尚更、弱気を吐くことはご法度であろう。

 とは言え、藤平も一介の人間にすぎず。そして完璧な存在とは程遠い。

 人間だから、弱音の一つぐらい吐きたい時もある。



「いや、別に。ただ……そう、なんとなく声が聴きたくなってさ」


『そうだったの? なんていうか、その……藤平くん疲れてない?』


「え? そ、そんな風に聞こえたりしたか?」


『うん――今、ビデオ通話ができたらいいんだけど、ちょっとカメラが壊れてできないのが残念だけどさ。でも、さすがの私でも疲れてるなぁってわかるもん』


「……そうか。まぁ、そうだな。確かに……うん、疲れてると言えば疲れてる」


『お仕事、そんなに大変なの?』


「いや、仕事ってわけじゃないんだけどな……」



 藤平は言葉を濁した。

 恋人の手前、幼馴染の話をするのはよろしくない。

 ましてやその内容というのが、告白であれば尚のこと。

 浮気するのではないか、などと誤認された日には当分立ち直れそうにもない。

 そんないらない自信が藤平にはあるからこそ、彼は真実を語ろうとはしなかった。



『……辛かったら、遠慮なく話してくれていいんだよ?』



 彼女からの言葉は、疲弊した藤平の心に深く響いた。

 やっぱり、自分には彼女しかいない。


 今一度再認識をした藤平は、ようやくその顔にわずかばかりの笑みをふっと浮かべた。


 ある程度は余裕が戻ってきたと彼自身も理解したところで、藤平は言葉を静かに紡ぐ。


 そこから先は、なんていうことはない。他愛もない世間話で彼らは盛り上がった。


 楽しい時間というものは、あっという間に流れる。

 窓の向こうでは、青かった空は美しい茜色に染まっている。


 そろそろ夕食時だ。名残惜しくはあるが、自身のわがままを押し付けてはならない。


 別れを告げる藤平の言霊には、寂しさが完全に隠せていない。



「――、それじゃあそろそろ。悪いな、長いこと話しちゃって」


『ううん、気にしないで。あ、そうそう。大事なこと言い忘れてた』


「大事なこと?」


『私ね、もうすぐそっちにいけそうなの! だから会うのを楽しみにしててね!』


「ほ、本当か!?」



 それは藤平にとっては正しく朗報だった。


 というのも、恋人ができたものの実際に対面したことは実はまだ一度としてない。


 出会ったのも、いわゆる出会い系アプリによるもので、肝心の恋人は遠方に住んでいる。


 よって二人は超遠距離恋愛カップルなのだ。


 まったく会えないことに対し、藤平も不満がまったくないわけではない。

 せっかくの彼女なのだから、デートをしたいと思う気持ちは誰よりも熱く強い。

 されど、遠距離なのだからそれも致し方ない。


 いつか必ずデートができればいい。そうずっと自らを律していたところに、今回の知らせである。


 当然藤平が喜ばないはずがない。



『今日はいきなりデート行けなくて本当にごめんね? だけど、次はちゃんと予定が組めたからもう大丈夫! 次は必ずデート、しようね!』


「マ、マジか!?」


『マジもマジ。というかめっちゃ嬉しそうだね』



 くすくすと笑う恋人に、藤平も小さく笑って返した。



「当たり前だろ! やっとデートができるんだ。これが嬉しくないわけがないだろ!」


『はいはい、わかったから落ち着いて――まぁ、私も楽しみにしてるんだけど。それじゃあまた日が近くなったらこっちから連絡するから』


「わかった! 俺も、すげー楽しみにしてるから!」



 さっきまでの沈んだ藤平は、もうどこにもいなかった。

 嬉しさが滲み出た顔は、傍から見れば心底だらしがない。

 だが、当人にはそれほど嬉しいことなのだ。


 彼を咎める者はここにはおらず。思うがまま喜びを体現する藤平は、しばししてふと冷静さを取り戻した。



「……でも、今憶えばデートをするっていうのならやっぱり赫璃町ここはまずいんじゃないか?」



 犯罪件数がもっとも多いという欠点を持つ以上、どうしても危険が蔓延っている。


 そして、それを外部から訪れた人間が目の当たりにすればどう思うかは、火を見るよりも明らかだ。


 例えそれが、事情を知る恋人であろうと例外ではない。

 きれいに掃除をする必要がある。

 藤平はベッドから身体を起こすと、手早く身支度を整えた。



「いつ来るかわからないけど、とりあえずそれまでにある程度は狩りまくっておくか……できるなら、デート当日まで馬鹿な犯罪者が犯罪を犯そうなんて思わないぐらい徹底的に――」



 不意に、室内に呼び鈴が鳴った。

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