第10話:三十六計逃げるに如かずってなぁ!
自宅へと戻る藤平は、周囲が怪訝な眼差しを送るほどとても上機嫌だった。
鼻歌交じりで意気揚々と大通りを歩く藤平に、さっきの出来事について
これから愛する彼女との初デートがある。
デートのことですでに彼の脳内はいっぱいで、それ以外の雑念はすべて等しく虚空へと追いやられた。
デートをするのだから、陰気な雰囲気では楽しむものもまるで楽しめない。
何より、彼女に厳密されてしまう可能性だって十分にあろう。
それだけは是が非でも回避せねばならない。
交際してまだ一週間すら経過していないのだ。
独り身にだけにはもうなりたくない。藤平はすこぶる本気で、そう思った。
自宅まで後わずかにまで差し掛かった頃だ。
「藤平……」
「げっ! タ、タツミ……」
行く手を遮るように仁王立つタツミに向ける藤平の視線は、ひどく訝し気なものだった。
ここにいる、ということはマモルとの死闘はもう終わったのだろう。
そして、やはりこの男が勝利したか。藤平は納得した面持ちで、吐息を静かにもらした。
マモルも確かに強かったが、やはり空手を極めた相手とは相性が悪かったらしい。
ましてや彼女は、タツミによって左腕を派手にへし折られていた。
あの状態からとても勝ち目があるとは、藤平も考えられなかった。
それはさておき。
道着姿であるタツミをしばし見つめていた藤平だったが、その目をぎょっと丸く見開いた。
「タ、タツミ……お前……」
それは、男であるはずのタツミには本来備わってないものだった。
胸である、またの名を乳房……おっぱいとも。
大きすぎず、小さすぎず。
程の良い大きさと形のそれを、俗に美乳という。
長年、藤平はタツミを男だと思っていた。
普段の言動は当然のこと。空手も男性の部門で彼は見事優勝をしている。
こうも数多くの事実がありながら、何故タツミが女性であると考えよう。
「……そう、だな。貴様はずっと、オレのことを男だと思っていたんだな。無理もない話だが」
「ど、どういうことだ? まさかお前……せ、性転換手術したとか?」
「違う! オレは……! 元かられっきとした女だ」
「マジ、か……で、でも」
それならば何故、性別を偽る必要があったのだろう。
藤平はどうしてもそこがわからなかった。
その理由をこれより語ろうとするタツミの表情は、いつになく暗い。
言葉を紡ぐ口を重々しく、それは彼……否、彼女がこれまでに葛藤に苛まれてきたことがうかがえた。
「……我が家には男がどうしても生まれなかった。父としては道場を継ぐ跡取りとして、やはり男が欲しかったのだろう。しかし生まれてきたのはこのオレだ。だからオレは必然的に、どうしても男として振る舞うしかなかった」
「…………」
「幸か不幸か、父にとってオレは単なる女じゃなかった。オレが生まれつき、異常体質者だっていうのは憶えているだろう?」
「……まぁ、な」
タツミは幼少期の頃から、他にはないある特異体質を持っていた。
筋肉の異常発達――見た目こそほっそりとしているのに、実際は大人の何倍以上もの身体能力を有する。
これによって、幼少期のタツミは誰よりも辛い思いをしている。
周囲と明らかな違いによる差別、いじめ――幼い子供にそれが耐えられるはずもなく。
しかし、そんな時に傍らであり続けたのが他でもない。
きっかけ、なんてものはもうよく憶えていない。
強いて言うのであれば、なんとなく。そんな曖昧極まりない理由からに他ならない。
周りからいじめられて、なんだか可哀想だった。ただ、それだけにすぎなかった。
「貴様がいなければ、と思うと今でもゾッとする。多分、オレはあの環境に耐えられなくなって自ら命を絶っていただろう」
「そんな……いくらなんでも大袈裟な――」
「大袈裟なものか。かつてのオレはそれぐらい追い詰められていたのだからな」
「タツミ……」
「とにかく、オレは貴様のそのちょっとした行動が嬉しかった。優しさが最大の癒しだった。貴様がいてくれたから今のオレがある――だが、いつか貴様には真実を明かそうとしていた時だ。恋人ができたなんて、予想だにしていなかったぞ」
次の瞬間、タツミの雰囲気ががらりと打って変わった。
自らの出生について赤裸々に語った時の辛くも穏やかな雰囲気は一変。
それはまるで吹きすさぶ嵐のようで、果てしなく深い底なし沼のごとくどろりとしている。
目が完全に据わり、その瞳に宿る輝きは深淵の闇を藤平に強くイメージさせた。
彼女に殺されるかもしれない、とこう錯覚に陥らせるほどに――。
「なぁ……藤平よ。オレじゃあ、だめなのか?」
「駄目って……なにがだ?」
「オレじゃあ、貴様の恋人には相応しくないか……?」
「えぇ……!?」
その告白はあまりにも唐突すぎた。
突拍子もなく、雰囲気の欠片さえもない。
なにもかもがいきなりすぎるものだから、藤平もつい素っ頓狂な声をあげてしまう。
相手が、あの大鳥タツミであることも要因としては大きい。
言ってしまえば、男から告白されたも同じなのだから。
タツミは女だった――この事実を知ったからとて、長らくあった認識を変えるのは極めて難しい。
それ以前の問題として、藤平には交際したばかりの彼女がいる。
タツミの懇願にも似た告白は、到底受けれたものではなかった。
「……悪いけど、それは無理だ。俺はお前のことを、馬鹿みたいに強くて、女性にモテまくって、それでいて俺をいつも脆弱扱いする幼馴染としか思ってないんだ。だから、その……悪い」
藤平の言葉に、嘘偽りの感情は一切ない。
仮に、ここで嘘を吐いたとしても所詮その場しのぎにすぎない。
いつかは必ず白日の下に晒されるだろうし、返って事態が悪化する可能性もある。
それ故に、タツミは正直な気持ちをタツミに吐露した。
もちろん、こうすることが最良の結果になる――などというのは、さしもの藤平もさらさら思っていない。
タツミの瞳は、ドがつくほどにどろりとしてひどく黒い。
ぶつぶつと小声で紡がれる言葉は、か細すぎて解読できず。
だが呪詛のような雰囲気をひしひしとかもし出す彼女は、とても恐ろしかった。
選択を誤ってしまったかもしれない――一抹の不安が、藤平の胸中にて芽生えた。
「――、そんなにもその恋人がいいのか? どこぞの馬の骨ともわからないような、幼馴染であるオレなんかよりもずっと、いいのか……?」
「お、おいタツミ少し落ち着け……。お前とは確かに幼馴染だけど、俺はお前のことをずっと男だと思ってたんだぞ? いくら女性ですってカミングアウトされたって、だからはいわかりました好きです、とはならんだろうに」
「藤平は……オレのなんだ。オレが幼馴染で、隣に立つのは一番相応しいんだ……!」
刹那、藤平は咄嗟に後方へと大きく跳躍した。
跳躍して、ほんのわずかに遅れてついさっきまで彼がいた地面が爆ぜた。
コンクリートの地面を、人間が素手で破壊する。
これぐらいの芸当は、さほど珍しいものでもない。
藤平がこれまで検挙した犯罪者も、この程度ならば容易にしていた。
驚きはしないが、しかし比較対象がタツミとなると話ががらりと変わってくる。
世界チャンピオンの肩書を背負うだけあって、彼女が見せる一撃は凄烈の一言に尽きよう。
コンクリートの地面を破壊するだけでなく、そこに大きなクレーターをたった一人で残してみせたのだ。
もしこれが人間だったら、とそこまで想像した藤平はその顔を青白く染めた。
「お、お前いきなりなんのつもりだ!? 今の一撃、明らかに俺を殺すつもりだっただろ!」
「だって……こうでもしないと貴様が、恋人とやらのところに行ってしまうだろう? だったら、オレにはもうこうするしかないんだ……。オレのところに来てくれないんだったら、足を壊して監禁するしか――」
「お前そういうこというやつだったっけか!? と、とにかく俺はごめんだからな。ここは悪いけど逃げさせてもらうぞ!」
「あ、ま、待て藤平! 待ってくれ……!」
待てと言われて、素直に待つ馬鹿はまずおるまい。
タツミの制止も無視して、藤平はひたすら走り続けた。
タツミの身体能力は、お世辞抜きにして超人である。
仮に彼女が空手家になっていなかったとしても、なんらかの競技に出場すれば確実に好成績を築けただろう。
それほどの相手からの追跡に、一般人が逃げ切ることなど果たして可能なのか――不可能である。
タツミから逃げ切れる可能性は皆無であるし、また追跡する様も相手からすればさぞ恐怖だろう。
ならば藤平とて例外にもれることはないだが――彼はその例外に唯一、もれることができる。
「いっただろ? 逃げ足なら得意だって……」
最初こそ、両者との間にはさほど距離は開いていなかった。
それこそ、腕を精いっぱい伸ばせば指先が触れるか否か。
そんな瀬戸際にいたはずの藤平だったが、現在ではタツミの遥か先を走っている。
そして振り返った時、そこにもうタツミの姿はなかった。
どうやら無事に逃げ切ったらしい。立ち止まり安堵の息をはく藤平。
その顔に疲労の色は欠片さえもなく、息もまったく乱れていない。
まだまだ余裕を感じさせる彼の足取りは、そのまま町の方へと向かう。
「このまま帰って、家で張られてたなんてなったら面倒だからな……」
小さく溜息を吐いて、藤平は商店街へと赴いた。
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