第9話:キャットファイトのレベルじゃねーぞ!

 変化は、突如として訪れた。


「はっ?」

「え……?」


 廃屋に轟音が響き渡った。

 耳をつんざく音の正体は、右の壁にぽっかりと大きな穴が開通したことにある。

 大量の砂煙がわっと舞い、そこから姿をスッと現した人物に藤平はぎょっと目を丸くする。

 どうしてお前がそこにいるのか。

 そも、どうやってここを嗅ぎ付けたのか。

 狼狽する藤平を他所に、その人物はマモルの前に仁王立つ。

 彼女をキッと睨むその瞳には、凄まじい怒りと殺意がこれでもかと宿っている。

 おおよそ、一般人……かどうかはこの際さておき。

 試合の時でさえも、このような目をしたのを藤平は見たことがなかった。



「――、おい貴様。オレのタツミに何をしてやがる……」


「タ、タツミ……!?」



 大鳥タツミーー彼女をよく知る者であれば、現在の姿は到底信じ難いものに違いあるまい。

 鬼のような形相は、対峙しただけでその者の心をいとも簡単にぽきりと折ってしまいそうなぐらい。

 藤平でさえも、思わずたじろぐほどの凄烈な威圧感なのだ。

 常人であれば卒倒したとしても、なんら不思議な話ではない。

 マモルは、そう言う意味では単なる常人には部類されない。

 気丈にも彼をキッと睨み返す彼女も、同等の殺意を露わにした。

 同一人物とは思えないマモルの豹変っぷりには、さしもの藤平もひどく困惑する。

 どうやら自分の前では猫をずっと被っていたらしく、あれが彼女の本性なのだろう。

 末恐ろしい後輩だ、と藤平はすこぶる本気で思った。



「……チッ。もう嗅ぎつけてきたか。先輩の周りをうろつく羽虫め」


「タ、タツミ……! お前どうしてここが――」


「オレは貴様の幼馴染だぞ? 貴様のことならば、どんな些細なことだってお見通しだ」


「いや、それはなんていうか……普通に引く」


「……自分は今先輩と大事なお話をしている最中なんです。部外者は引っ込んでおいてもらえないですかね」


「部外者は貴様の方だろう。大した力もなく、後からパッと湧いて出た貴様なぞ、死肉に群がるハゲタカのようではないか。そんな輩が藤平に相応しいはずがないだろう」


「お、おいタツミ……!」



 タツミの言葉には鋭い棘があった。

 むろん、それは相手に対して傷付けることを目的としている。

 言葉は時に、拳よりもずっと鋭利な刃と化す。

 心を無情にも傷付けられた者が自殺という結末を迎えてしまうほど、言葉には凄まじい影響力があるのだ。

 それを武の道を進むこの幼馴染が、知らぬはずもなし。

 だが彼はあろうことか、年下の女性に対してまるで容赦がなかった。

 あたかも恋敵だとでも言うような言動は、長年付き合いのある藤平でさえも知らぬ一面である。

 今にも殴り合いに発展しかねない、緊迫した空気に藤平はただ狼狽するしかできなかった。



「……最終警告だ。今すぐ藤平の前から姿を消せ、そして二度と会わないと誓えばとりあえず殺さずにはおいてやる」


「はっはっは。確かあなた、空手の世界チャンピオンっていう配役・・でしたっけ? 仮にも武道家ともあろう方が、そんなことを口走っちゃっていいんですかぁ?」


「抜かせ。有象無象がそもそもオレの前に立つこと自体が不遜であり愚行だ。それを今、思い知らせてやろう」



 次の瞬間、タツミの姿が藤平の視界より消失した。

 厳密に言うなれば、視認速度を軽く凌駕する速度で間合いへと肉薄したのであった。

 それはもはや、人間を明らかに超越していた。

 如何に武芸に長け、身体能力が優れていたとしても、あれは人外的だ。

 藤平の驚愕を他所に、廃屋を舞台に二つの拳が真正面からぶつかった。

 鈍く鋭い音はさながら巨大な金槌による衝突のよう。

 耳をつんざく衝撃音に加え、凄まじい突風が屋内に吹き抜ける。


 夢でも見ているのだろうか。

 藤平はありえないと、しかしそう思わずにはいられなかった。


 仮にもタツミは、空手の世界チャンピオンである。

 その実力は折り紙付きで、これまでに彼に挑んだ輩は等しく敗北している。

 悲惨なのは、武道家としてではなく暴漢などが挑んだ場合だった。

 曰く、試合と戦闘では力の使い方をきちんとわけている。

 タツミが口にしたその言葉に、藤平は当初はまるで信じていなかった。

 そんわけがないだろう、と彼がそう言った次の日。幸か不幸か、タツミは暴漢に襲われた。


 むしゃくしゃしていたからこの際誰だってよかった――動機にしてはあまりにもいい加減極まりない犯行に及んだ男だったが、代償として全治数か月という大怪我を負うこととなる。


 全身の骨が粉砕され、もはや生存していることが奇跡に近しい。

 いくらなんでもやりすぎではないか、とかつてはさしもの藤平も彼にこう言及した。

 武道家の技は、時には凶器以上の危険物にもあっさりと化ける。

 しかし、当の本人はそのことについてまるで悪びれる様子はなかった。

 むしろ周囲もタツミを称賛し、お咎めなしとなった以上は藤平もとやかく言及できなかった。


 それはさておき。


 タツミはともかくとして、マモルは何者なのか。

 互角に渡り合うだけでも、これは十分に驚愕に値する事象である。

 涼しい顔のまま、だが瞳には両者共々しかと殺意を乗せて、拳を繰り出す。

 とはいえ、やはりタツミは武道家である。

 武を体得しているというステータスが徐々に彼を優勢に立たせた。



「……どうした有象無象の。このオレを殴るのだろう? 殺すのだろう? だったら、その程度では到底無理だ」


「ぐぅっ!」


 枯れ枝をへし折ったかのような音がした。

 タツミの得意技である回し蹴りが、マモルの左腕を破壊した。

 雪のように白かった柔肌が、たちまち青紫色に変色していく。

 それだけでなく、彼女の腕は二倍にも大きくはれ上がった。

 さっきの一撃で骨折したのは、確認するまでもなかろう。

 勝負はついた。藤平は颯爽と両者の間に割って入る。

 これ以上は本当に死体が出来上がりかねない。それを阻止するための仲裁である。



「そこまでだ! もういいだろう、タツミ。いくらなんでもやりすぎだ」


「そこをどけ! オレは貴様の幼馴染だぞ!」


「いや今はそれ関係ないだろ!」


「何言っちゃってるんですかね……先輩の真の幼馴染は、あなたじゃなくて自分ですよ……」


「お前も見た目より元気そうだな! でも真の幼馴染とかよくわからんから!」



 藤平の仲裁も虚しく、両者は幾度となく衝突する。

 これはどちらか一方が倒れるまで終わらない。

 藤平もそう感じずにはいられず、いよいよ実力行使をせねばと覚悟した――正にその時だった。

 殺伐とした空間に反響するその電子音は、不相応極まりない。

 とは言え、この軽快なBGMが二人を制止したのは紛れもない事実であった。

 救世主とも言うべき電話の相手に藤平はげっ、とその顔をひどくしかめる。

 自宅などであったならば、その通話相手は彼には大変喜ばしかっただろう。

 ただ如何せん、タイミングがあまりにも悪すぎる。

 もしここで呑気に出ようものならば、その時二人がどうなるかまるでわからない。

 怒りの矛先がこちらに向くやもしれぬ。そんな最悪の結末に藤平は一抹の不安と恐怖を抱いてしまう。

 出るべきではない。そう判断した藤平だったが、タツミが口火を切った。



「――、早く電話に出たらどうなんだ?」


「うぇ!? あ、あぁ……いや。べ、別に今でなくてもいいかなぁ、なんて」


「どうした? オレに聞かれるとそんなに困る相手なのか?」


「え、えっと……」



 彼の口調は、マモルとの戦いの余韻のせいだろう。

 タツミの言霊からは、ひしひしと苛立っているのが伝わってくる。

 もちろん苛立ちを募らせているのはなにもタツミだけではない。



「――、先輩。その電話の相手ってもしかして彼女さんですか?」



 マモルだ。

 そこに笑顔は一切なく、瞳を黒く濁ってまるで沼のよう。

 じりじりとにじり寄る光景はスプラッター映画を彷彿とし、強烈な恐怖を生む。

 廃墟という場所で彼女と遭遇すれば、幽霊だと見間違うかもしれない。

 後退する傍らでそんなことを、ふと思う藤平は小さく自嘲気味に笑った。

 まだ、くだらないことを考えられるだけの余裕が自分には残っているらしい。



「……あぁ、そうだよ。だからここで出たくなかったんだよ!」


「……どうぞ先輩。早く電話に出てあげてくださいよ」


「そうだ藤平よ。オレ達に気を遣う必要はまったくないんだぞ?」


「……お前らのいないところでじゃあするわ」



 藤平はそそくさと廃墟を後にする。

 自分ではもう、あの二人を止められそうにない。

 そう結論を下した時から、どうやって逃げるかをずっと思案していた。

 この電話は結果として、藤平に逃げるための口実を与えた。

 正に地獄に仏、とそう言っても過言ではあるまい。

 ありがたい。廃墟から遠く離れた場所で、藤平は電話に出た。



「も、もしもし!?」


『ど、どうしたの? なんだかすごく焦ってるようだけど……』


「ま、まぁちょっと? 色々とあってな……それで、どうしたんだ?」



 受話器越しから聞こえる愛しきその声に、藤平の顔にはようやく安堵の色が浮かんだ。


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