第4話:身の回りで次々と異変が起きてる……なぁぜなぁぜ?
時刻は午後9時をちょっとすぎたところ。
外はすっかり暗くなり、空はさながら上質な
散りばめられた数多の星のその輝きは美しく、であれば一際目立つようにぽっかりと浮いた三日月は現存するどんな宝石よりもずっと美しい。
氷のように冷たくも神々しい月明かりによって、優しくほのかに照らされた街並みに昼間のような活気はもうない。
しんとした静寂は心地良く流れる中、藤平は未だ覚醒していた。
「さてと、今日もフィオーネ様の配信を見に行きますかっと……!」
Vtuber……現代人にとってこの文化はもはや、そう珍しいものではない。
素顔を晒さず、気軽に配信できるという利点から、この界隈に参戦した輩は少なくはない。
とは言え、趣味程度ならばともかく界隈で名を馳せようとするならばそれ相応の覚悟と努力が必要だ。
珍しくなくなったから、その分他者にはない何か秀でた能力がこのV界隈では求められる。
周囲と同じことをやっても、所詮は二番煎じ。新鮮味のない配信にくるものは、一握りぐらいしかきっとおるまい。
そういう意味では、藤平が心から推している彼女……
『こんフィオー! 今日も元気に気に入らない奴はぶん殴っちゃうぞ? 拳で語るお嬢様系Vtuberの簓フィオーネでーす!』
「お、始まった始まった! こんフィオーっと」
『あっ! 首切りチェストさん! スパチャありがとうございます! 相変わらずの開幕スパチャ……嬉しいけど、無理だけはしないでね』
「無理はしていない、だが無茶はするぞ俺は」
画面越しで笑顔を振りまく姿に、藤平は頬を緩ませた。
まったくの余談ではあるが、首切りチェストとは、藤平のHNである。
何故このようなHNにしたか。それについては、実は彼はよく憶えていなかった。
強いているのであれば、なんとなく。忘れてしまうぐらいなのだから、きっとそんな曖昧極まりない理由だろう。
とにもかくにも、首切りチェストとしてフィオーネを応援する藤平は、最古参リスナーとして周囲から認知されていた。
いつしか藤平のことを、隊長、などという意味不明な異名で呼ぶ輩も現れるようになった。
これについては、さしもの藤平も微塵にも思い当たる節がないため、終始無言を徹底している。
しかし、悪い気がしないでもなかった。
『それじゃあ早速だけど、今日はここにいるリスナーさんに大事なお知らせがあります!』
「大事なお知らせ? なんだ……まさか、有名な企業に所属するとかか?」
これについては、ずっと前から噂が立っていた。
フィオーネほど、有名な個人勢Vtuberはそういるものではない。
ならば企業としても、きっと彼女を放置するのはもったいないと判断するだろう。
今や、Vtuber界隈には数多くの事務所が設立されるようになった。
それこそ無名から有名まで、とにもかくにも数多くの事務所が存在する。
もっとも、例え所属しようとも応援するという意志が変化することは決してない。
これからもずっと、引退という悲しき日が訪れるその時まで。推しを全力で応援するまで。
とは言え、大事なお知らせとはいったいなんだろうか。
藤平ははて、と小首をひねりつつも内心では期待を胸に膨らませた。
『……今から言うことにきっとみんなは驚くと思う。だけど、心から聞いてほしいの』
しばしの静寂の末、フィオーネが静かに口火を切る。
彼女が発するその言霊は、普段のおっとりさが皆無で真剣そのものである。
なんだか嫌な予感がした。藤平の表情もこの瞬間より、いつになく真剣みが帯びた。
『わたし、簓フィオーネは本日をもってVtuberを引退します』
「……は?」
『本当にごめんね! だけど、わたし……もう耐えられないんだ……』
そう語るフィオーネの声は、明らかに震えていた。
かすかではあるが、確かにすすり泣く声をマイクがしっかりと拾っている。
泣いていた。これまで一度としてアンチコメントにもくじけることなく、弱い姿を見せなかったあのフィオーネが。
この予期せぬ事態に当然ながら、コメント欄は阿鼻叫喚となった。
何故引退するのか、何が原因なのか。原因を探ろうとする中でも、彼女への気遣いもできるのが門下生である。
ちなみに、門下生とはフィオーネのリスナーの総称だ。
かく言う藤平も、言うまでもなく。このあまりに突拍子もない引退宣言には、動揺を禁じ得ない。
「いやいやいやいやいや! あ? 引退? え、なんで? マジで何があったんだ!?」
『皆ごめんね。皆とこうして配信の中で雑談したりするの、すっごく楽しかった! だけどね、それじゃあ駄目なの……今のままだったら、もう取り返しのつきそうにもないから……』
「おいおいおいおいおい! 本当に何があったんだよフィオーネ様!」
『というわけだから、今日でフィオーネはVtuberとしての活動を引退します。本当に、本当にありがとうございました。あ、このチャンネルについてだけど……』
淡々と今後の方針について説明がされていく中で、藤平の心はここになかった。
推しが引退をする。ただその事実だけがずっと胸中にて渦巻いている。
到底、信じられるものではなかった。
これが彼女のちょっとしたドッキリだったならば、どれだけよかったことだろう。
だが、その願いも虚しくフィオーネは画面の前から静かに姿を消した。
本日の配信は終了しました――この文字だけが画面上にだけぽつんと虚しく残る。
「……マジで引退したのか」
そうもそりと呟く藤平の口からは、盛大な溜息がもれた。
何気なく覗いたSNSでは、当然ながら今回の件についてひどく騒がれている。
脅迫された、リアルで単純に忙しくなった、などなど。
飛び交う情報はすべて憶測にすぎない。
けれども――簓フィオーネが引退した。この事実は何があろうと変わらない。
「あ~マジかぁ。めちゃくちゃショックなんだけど。これから俺は誰を応援していけばいいんだ?」
ベッドへ大の字に寝転がって、藤平は天井を仰いだ。
しばらくして、のそりと起きあがった彼はそのまま家を後にする。
推しの引退に気分は過去最高に沈んでいる。
この胸のモヤモヤを抱えたままでは、安眠できそうにもない。
特に用事などなかったが、気持ちを落ち着かせたい。そんな気分だった。
いずれ時が、この沈んだ気持ちを立ち直らせてくれるだろう。
傷付いた心も、いつかはきっと癒されよう。
そう信じて、藤平は眠りについた街へと出た。
午前9時過ぎともなれば、言うまでもなく人の気配も皆無に等しい。
時折車が走り去る程度だが、眠りについた街はどこまでもひたすらに静かなものであった。
そんな中、ふらりと立ち寄ったコンビニにて藤平は訝しそうに女性を見やった。
女は二人組で、しかし夜遊びをするような雰囲気にはとても見えない。
どちらかというと、とても大人しそうな性格だった。
広いだけに車のなさに物寂しい駐車場にて語る彼女らの
「はぁ……まさか【夢幻の遊技場】が無期限の休業をするなんて」
「夜遅くでも開いてるし、そっちの方が人も少ないからチャンスだと思ったのに……ついてないわね」
「……え? ちょ、ちょっといいか?」
藤平が声を掛けた途端、二人の女性は揃ってひっ、と短い悲鳴をあげた。
いつものことだ。
だが、それよりも藤平には気になることがあって仕方がない。
「今、【夢幻の遊技場】が無期限の休業をするって言ったか?」
「は、はい……。理由はよくわかんないですけど、で、でも入り口に張り紙が張ってました……」
女性がそう口にしたとおり、撮影されたであろうその件の張り紙には確かに、休業する旨についてがしっかりと記載されていた。
理由については一身上の都合により、と定型文しか記されておらず。
肝心の部分がないにせよ、【夢幻の遊技場】の休業に藤平は困惑を禁じ得なかった。
今日だけで、身近なところで二件もの異変があった。
果たしてこれは偶然によるものなのだろうか。
一見すると無関係なようで、実は裏では繋がっているやもしれぬ――実に、馬鹿馬鹿しい。
探偵ものに影響をされすぎだ、と藤平は自嘲気味に小さく笑った。
とにもかくにも、明日確かめてみる必要がある。
そう判断をした藤平は、颯爽とコンビニを後にした。
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