スローモーション

知り合いの松本さんが通勤途中に横断歩道を渡っている時に、突然立ちくらみがした。普段から低血圧気味だったので「いつもの事か」とふらふらとその場にしゃがみ込んだが、どうも様子がおかしい。


周りの景色がスローモーションになったようにゆっくりに見えたのだ。


不思議な感覚だった。周りの人もゆっくり動いて見え、周りの音もゆっくりに聞こえる。人の話し声や車のクラクションもゆっくりと聞こえた。



「しね」



突然、背後から男の声が聞こえた。


振り向いたが、誰もいない。


振り向いた先に車が見えた。その車は視線からかなり離れた場所にいたのだが、何故か嫌な感じがした。こっちに来る気がした。


逃げないと


松本さんはこの場を離れようと咄嗟に前に向かって走った。


走りながら後ろの様子を見ると、スローモーションで車が車道をそれていくのが見えた。車はそのままゆっくりと歩道に乗り上げて、電柱にぶつかった。そこはさっきまで自分がうずくまっていた所だった。


危なかった


フロントがぐちゃぐちゃになった車を見ながら大きく息をつく。


周りがスローじゃなかったら気付けなかった…咄嗟に走ってなかったら……


息を切らせながら座り込んでいると、周りが少しずつ普通のスピードに戻っていった。


少し落ち着いてくると車が突っ込んできた時の事が冷静に思い出してきた。あの男の声は何だったんだろう。あの声がした後に急に車が突っ込んできた。あの声が車を動かしたのか?その時、松本さんはある事に気付いた。


「しね」という声、普通のスピードに聞こえてなかったか?


周りの景色も音もスローになっているのに、「しね」だけははっきりと聞こえた。スローモーションではなかった。


何故、男の声がスローではなかったのかは松本さんにはわからない。ただ、あの声は誰かが話した声じゃなくて、直接心に語りかけてきた声なのでは、と考えている。

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