父親の資格


 私の親父は沢山のモノを幼かった私自身に与えてはくれていた。肉体、名前、教育、環境等とこうして並べてみると枚挙にいとまがない。だが悲しきかな、それらの中に私が本当に欲しかったものはひとつもなかったのだ。


 私は生まれた時から色素が薄く、とりわけ髪の毛は金色に近い髪質をしていた。なにせ姉が生まれた際にも世話をしてくれた同じ病院の同じスタッフから『外国人の主人と再婚したのか』と私が取り上げられてすぐ母に聞いてきたのだという。


 身体全体の色素が薄かった私は、子供のころしょっちゅう体調を崩していた。一般的に色素の濃さはその人が持つ免疫力の度合いと比例する。赤ん坊なのに真っ白けだった私は、生後間もなく気管支炎を発症したとされる。


 そんな私を見て、血を分けてくれたとうの親父は「こんなちょろこくて、この先大丈夫か」と思いやられたという。「気管支炎も、ちょろこさも親譲りだい」と、今となっては声を大にして言いたい。


 そんなこんなですくすくと育った私と姉は幼稚園から高校に至るまでの十数年間。同じ富山県にて根を下ろす親父と母親の下で、同じように引き続き育て上げられることとなる。


 夫婦ともども歯科医師だった両親は、親父の生まれ故郷である富山に歯科医院を開設した。共働きということもあり精励恪勤の、忙しい日々ではあったが私たち実の子供たちをけして飢えさせはしなかった。


 私は姉共々同じ幼稚園を出、以降小中高と立て続けにまったく同じ出身校を卒業していった。なんなら大学も同じで、実のところそこが両親揃って同じの出身校だったりもする。もっとも姉は一般入試、私はAO入試でそれぞれ入学を決めているのだが。


 元々、私は埼玉にあったその大学に入る気さえあまりなかったのだが親父の命令で仕方なく進学させられた。なんなら私は高校時代理系ではなく文系を選択していたため例の大学に入る予定はほぼほぼ無いに等しかったくらいである。


 元来勤勉だった姉と、マイペースな私。その差は如実にそして確かな形で表れていった。


 姉は難なく進級していき、歯科医師国家試験も卒業試験もパス。大学院に進み今は助教授として一定のポストを築くまでに至る。


 一方私といえば、慣れない理系の勉強に悪戦苦闘し、日々加速度的に進んでいく授業になんとか付いていくのがやっとの有様。気づくと、赤点追試の常連になっていて、それすらも満足にこなせられず留年を幾度となく繰り返した。


 私に大学卒業の見込みが薄いと判断した親父は、直ちに大学を自主退学して故郷の富山に帰ってくるようまたも命令を繰り出してきた。


 この頃になると成人したことで殊更自我も強くなり、多少戦ったのだが結局頑固一徹で三言居士の親父を突き崩すまでに至らなかった。


 退学を決めてから実家に帰るまでの記憶が曖昧で実感自体もあまりない。


 唯一、確かな輪郭を帯びたものが、私の記憶の奥底にて息を潜めて暮らしている。


 当時、大学近くの鶴ヶ島らへんに住んでいた。住まいの近所を流離っていると、集合墓地に気がつけば立ち入っていた。春頃の気候だったため、昼間は暖かであるが暗くなると肌寒さが身体を身震いさせる。墓場の一角にて座り込み、空を見上げる。夜空は星がきらめいていて、深い闇の中静かにその明るさを湛えていた。


 それを見ていて途端に涙が溢れた。思えば生まれてからずっと親父のいいなりの人生だった。なにかへまをやらかすとすぐに私をだらぶつだらぶつと詰ってきて、自信を失わせたところを付け入ってきてアレコレ言う通りにさせられていた。そのせいで、私は貴重な十代後半から二十代前半を、親父からの遠隔操作で丸々無駄にさせられていたのである。己の愚かさと虚しさを噛みしめながら尚も頬を濡らし続ける。身体の芯が冷え切る数時間後まで、私はひとり墓場で啜り泣き続けたのだった。


 大学へ自主退学の申請をし、学生証も返却後実家へとんぼ返り。虫食いだらけの心を提げて実家の敷居をまたいだ。


 右も左も分からない状況にひとり追い込まれた私は、これからどうすればよいかを父に問うてみた。


「就職しられ。警備員の業務くらいならお前でもやれるやろ」


 実の子に一瞥もくれることはせず、いともたやすく突き放してみせた親父の言葉は冷酷そのもの。


 それに対し、私は呆気にとられるばかり。


 突き放されたことにではなく、我が子にまるで興味を失った親父の存在そのものが理解できなくなったのである。この二十何年もの間、けして短くはない時間の中で私の良い所及び長所となる箇所を見つける努力をまるで親父はしていなかったのだ。


 そのくせ、実の子には分不相応な努力や度重なる理不尽の数々を課してきたと言うのに。

 

 ——————わかった。もう、お前には頼らない。


 声には出さなかったが、私は親父。否。アイツに破門を叩き付けることでようやく精神的な独立を始めて勝ち獲れたのだった。


 以降、私は前のめりで自分のやりたい事を進めるようになった。


 物理的にも独り立ちをするべく、実家近所のビジネスホテルにてフロント係のアルバイトを始めることとした。慣れない立ち仕事と接客は初めこそ擦り切れたが、しばらくしてからそれも苦にさえ感じなくなった自分に気づかされる。


 幸い実家住まいで両親ともども働き盛りだったため、稼いだバイト代は全て己の貯蓄に充てることができた。週五のシフトでバイトをちょくちょくこなしていたこともあり、働き始めてからたった半年の間で目標金額だった百万円に到達することができた。


 無事独立する目途が立ち安心していたのもつかの間。正月が明けてすぐに、例の新型感染症が全世界規模で猛威を振るい始めて、わが国にもとうとう波及しだしたのである。


 しかしそれでも私は火中に身を投じる一心で、東京へ向かい就職活動を開始する。全ては、アイツの支配を振り切るために。


 考えてみれば、それは私にとって生まれて初めての冒険に他ならなかった。


 なにがあってもどう転んでも最終的には自己責任で——————そんな至上命題の下、臨んだ就活は大変であると同時にとてもやりがいに満ちていた。シフトが空いている日は専ら就活にあてて、北陸新幹線で富山から東京まではるばる職探しに訪れる。時に深夜バスを利用しての就活もザラだった。当然、健康管理に人一倍気を遣い、うがい手洗い消毒殺菌を徹底させ感染症予防に努めた。


 そして、就活を開始してから約一ヶ月後。それまで八社ほど受けていた内の七社目の企業人事部から、就活アプリのメッセージを介して内定の連絡が届いた。


 念願だった東京での就職という夢の第一歩と、それまで無縁だった「自力で」

「誰の助けも借りずに」成果を手中に収めるという普遍的な成功体験を一挙両得する。生まれて初めての喜びが私の中を駆け抜けて、それらが脳を焼け付けるほど激しいことに驚愕させられた。


 その後、東京郊外にある割安物件を探し当てたり、お世話になったバイト先に東京で就職先を見つけた旨と春までに辞させてもらうように合わせて伝えたりと、相変わらず忙しい日々を過ごす。とはいえ、アイツや家族の言いなりをやっていたころに比べれば遥かにマシなのだが。


 迎えた春。物理的にも、とうとう、アイツからの忌まわしい呪縛を振り払って、私は、上京および独立を果たしたのだった。


 新天地に移り住んでからというもの、仕事が忙しいことを口実に夏の間は帰らずに冬の年末年始に帰省するのが常套手段と化す。


 実家ではアイツのことを相変わらず「親父」だの、「お父さん」だのと呼んではいたがそこにはもう以前の様な忠誠心は微塵もなかった。アイツへの呼称は単なるあだ名であって、関係性も自分の中では縁を切りたいのは山々な近寄りがたい友達のようななにかにシフトしていた。たったそれだけで私からすれば、アイツは私に競馬を教えるなど時々交通費を恵んでくれる便利な存在に他ならない。要は遊びを教えてくれる悪友としての才能をアイツは十分すぎるほど持ち合わせていたのだ。ただその分、私がずっと欲していた父親としての素質はからっきしだっただけで。


 兎にも角にも、割り切った甲斐もありようやくこの都市まちにてずっと待望でもあった己の夢にむかって突き進む準備ができたような気がした。


 今はまだスタートラインで、これから歩き出そう。上京してから早三年目——————まさに、その矢先であった。


 アイツが、親父が、亡くなるなどとは流石に想定外もいいところである。


 新幹線の車内で姉から連絡が入った時も。その数時間後実際に死んだ親父をこの目にした時も。一貫して、私はホッとしていたのだ。


 “親父モンスターは死んだ。これで一安心だ”——————と。

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