❁ 禁断の兄妹愛? ――ヘンゼルとグレーテル

【作戦コード:バーニングB】


 ヘンゼルにはもう後がなかった。

 初回は成功した『白砂利撒き作戦』も二度めは通用しない。代わりにパンくずを撒くなんて我ながらヤケクソも良いところ、絶対無理だろうと思っていたが案の定ダメだった。すべてすっかり食べ散らかされ、帰り道は闇の中。

 今は森じゅうの鳥という鳥を恨みに思いながら最愛の妹を抱き締めている。なんとしてもこの子を守り抜かなくては。

 ――いざとなったら、自分を犠牲にしてでも。


 グレーテルはずっと幸せを探していた。貧しい木こりの父、意地悪な母、食べ物にも着る物にも事欠くつらい生活。

 彼女にとって唯一輝いているのは、兄ヘンゼルの存在だ。彼は優しくて知恵が働き、貧乏な木こりの息子にしておくには勿体ないくらい爽やかな笑顔の持ち主で、あと数年もすれば立派な美丈夫になることだろう。

 何より妹の自分をとても大事にしてくれる。今は暗く深い森の奥で二人きり、互いを守るように抱き締め合っていた。

 ときどき父の仕事を手伝っているから、歳のわりに逞しい兄の腕に頬を寄せながら、彼女は思っていた。

 ――ああ、とっても幸せ。でもお兄様……、私たち、もっともっと幸せになれるのよ。



 森の中をさんざん彷徨った二人のぼっちの兄妹は、とうとう運命の場所に巡り合った。

 魔女の家。むろんその外壁は豪華なお菓子で出来ている。屋根はビスケット、柱はプレッツェル、窓は砂糖菓子、ぷんぷん甘い香りを放って子どもたちを誘い込んでいた。

 賢いヘンゼルは一瞬不思議に思ったが――これだけの匂いがあるのに、どうしてパンくずを食ってしまった鳥たちはこの家をつついていないのか――疑問より空腹のほうが今は大きかった。

 兄妹は家をさんざん貪って高らかな笑い声を上げた。そしてもちろん、家主の魔女に捕まった。

 その後の顛末は皆さんご存じのとおり。


「さあ、おまえの兄さんをよく太らせるんだよ!」


 魔女はヘンゼルを牢に押し込み、グレーテルを女中としてこき使った。痩せこけていた少年を効率よく太らせるため、彼にだけ食事を多めに与え、妹には粗食に耐えさせたが――優しい兄はこっそり自分の食べ物を分けた。それに賢い少年は、魔女の眼が悪いことを早々に見抜き、自分の指と偽って骨を触らせた。

 それでひと月近く「獲物が太らない」と騙され続けた魔女だったが、ついに我慢ができなくなって火を熾した。少年を丸焼きにするための天火オーブンは、人が入れるくらい大きい。

 ついでに妹も焼いちまおうという腹で、魔女はグレーテルに「中に入って火を見ろ」と言う。妹はそこで機転を利かせてこう返した「やり方がわからないわ。お手本を見せてくださる?」とんだカマトトである。

 しょせんは骨と指の区別もつかない馬鹿な魔女は、素直に従ってオーブンに閉じ込められた。


 室内に響き渡る魔女の悲鳴。生きながら焼かれる苦しみは、人も魔物も変わらないらしい。

 それを静かな顔で聞いていたグレーテルは、満を持して兄の牢のところへ行った。


「魔女は死んだわ、お兄様」

「本当かい!?」

「ええ、私をオーブンに入れようとしたから、反対に彼女を焼いてやったの。もう私たちは自由よ」

「……すごいことするな……、えっと、とりあえず僕をここから出してくれ」


 妹の所業にやや引きながらそう言うヘンゼルに、妹は薄らと微笑んで、こう返した。


「ねえお兄様……私のこと、好き?」

「え? 何だい急に、もちろん愛しているとも、たった一人の妹だもの」

「そうじゃないのよ。それじゃあ足りないの……。お兄様、ちゃんと私を見て」

「えっ……何言い出すんだ急に……というか、早く牢の鍵を」


 空気がおかしくなってきたのを感じ、少年の首筋を嫌な汗が流れ落ちた。魔女に食われそうになったときと同じ、いや、ある意味それ以上の恐怖がじわじわと背筋を這いあがってくる。

 ――誰だろう、この子。

 目の前の少女が妹に見えなくなってきた。かわいい妹のグレーテルは、こんなに冷たい顔で笑う娘だったろうか。気立てがよくて泣き虫で、……たしか前は、ヘンゼルのことを「お兄ちゃん」と呼んでいたはず……。


「お兄様、よく考えて。ここは森の奥深くにある魔女の家で、宝物も、魔法の道具も、なんでも揃ってる。これからは衣食に困ることはないわ。

 ――それからね、牢の鍵はここよ」


 いつの間に魔女から盗んだのか、グレーテルは首から提げていた鍵を、衣装ディアンドルの胸元から引っ張り出した。

 それを兄の目の前でチラチラと誘うように揺らし、蛇のような囁き声で告げる。


「ずっとここで、二人っきりで暮らしましょう……愛してるわ、私のヘンゼルお兄様……いいえ、

「ッ……!」


 ヘンゼルは確信した。これはグレーテルではない、と。

 どういうことかはわからないが、誰か別人が妹になり替わっている。あの子がこんな、恍惚の笑みを浮かべながら自分を見つめたりなんて、するわけがない。だって自分たちは兄妹なんだから。

 思わず叫びそうになって開いた口から、諦観の息が漏れ出ずる。彼女が言うようにここは森の奥だから誰も来ない。そして自分は今も囚人のまま、看守が魔女から妹モドキに変わっただけだ。


 聡明な少年は考えた。まず、ここから出してもらう必要がある。そのためには彼女の好意に応えるフリをするしかない。

 そのあとどうする? 偽グレーテルは魔法の道具があると言っていたから、実質的に魔女と同じ段階レベルの脅威となった。とても生身のただの人間が素でやりあえる相手ではない。

 何より――本物のグレーテルは今、どこに……。


「グレーテル……、僕が悪かったよ」

「あら、どうして?」

「おまえの気持ちに気づいていなかったから、きっと、つらい思いをしただろうね。お詫びをさせてくれるかい? ここから出してくれよ。そうしたら、まずは思いきり抱き締めさせておくれ」

「まあお兄様ったら……ふふ、上手ね。そういう賢いところがとぉっても素敵。でもダメよ」

「ど、どうして?」

「だって今はまだ動揺しているでしょう? 焦って、牢を出たいあまり思ってもいないことを言うかもしれないもの。しばらく頭を冷やしてもらって……それから、私への愛をじっくり考えてちょうだい。時間はたっぷりあるから、私、いくらでも待つわ」


 取りつく島もない。なるほど彼女はこちらが心が折れるのを待てばいいだけで、少しも焦ってはいないのだ。

 なんならグレーテルに成りすまし、森を彷徨い、魔女に囚われ、彼女をオーブンに閉じ込めて主導権を握るまでの数カ月間、彼女は一度もヘンゼルに疑問を抱かせなかった。それくらい狡猾で忍耐強い悪女を相手に、牢に入れられたちょっと賢いだけの木こりの倅がどう対抗しうるというのか。


 ああ、僕はもうダメだ……少年が膝を衝いた、そのとき、――オーブンのドアが開いた。



「――警察だ。無駄な抵抗はやめて、両手を頭の上に置け」


 そこから出てきたのは魔女――だったのかもれない、全身に煤を被って真っ黒になった人影だった。しかし腰の曲がっていた老婆とはまるでシルエットが異なり、しゃんと背筋を伸ばして立っているその人の手には、拳銃が握られている。

 グレーテルは忌々しげに表情を歪めながら、言われたとおり手を上げる。


「チッ……これからが楽しみだったのに」

「黙れショタコン変態女。……悪いなヘンゼル、火が消えるまで出られなくてよ。

 ――おい、もう入ってきていいぞ。被疑者を確保して人質の解放!」


 魔女に化けていたらしい誰かがそう告げると、扉が開いて次々と人が入ってきた。全員、まだらの緑っぽい服を着て、顔に泥のようなものを塗りたくっている。

 そのうちの一人が偽グレーテルから鍵を奪取して、ヘンゼルの牢を開けてくれた。スカートではなく、みんなと揃いの迷彩柄のズボンを穿いた男のような恰好だけれど、女性だった。


「もう大丈夫ですよ、ヘンゼルくん」

「あ、あなたたちは……」

「えーと……ちょっと遠いところから来た正義の味方、ってところです。あのグレーテルに化けた女を捕まえにきました。ただ証拠がなかったので、尻尾を出すまで泳がせなくてはならなくて……怖い思いをさせてごめんね」

「あ……あの、……じゃあ……グレーテルは……僕の妹は……?」


 少年は大きな瞳に涙を浮かべながら尋ねた。最悪の答えを想像してはいたが、聞きたくないと思いながら。

 すると女性は微笑んで、少年の頭を優しく撫でて言った。


「大丈夫です。保護が間に合ったので、無事ですよ」

「よ……よかったぁぁ……」

「――ちょっとぉぉおッ! そこのクソ女刑事ッ、あたしのヘンゼルきゅんに触ってんじゃないわよこのクソ***がッ!!」

「黙れ。空気読め。……誰かとっととこいつを連行してくれ」



 ……。

 二次元に萌えすぎて限界を迎えた人類は、とうとう禁忌の発明をしてしまった。『物語の世界に入る装置』である。

 オタクが推しを愛でるだけに留まっていればまだ良かったが、いつしか悪党たちの手に渡って以来、犯罪者が創作物の世界へ逃亡する事態が後を絶たない。ひいては登場人物の誘拐や殺害などの凶悪犯罪も増加していた。

 ストーリーが単純で入りやすい童話は、彼らの恰好の逃亡先だ。


 このたび、幼い少女が傷ついた姿で見つかった。幸い辛うじて息があったものの、彼女の身元を調べるのには、意識の回復を待たねばならなかった。

 少女の名はグレーテル。むろん、世界中の『ヘンゼルとグレーテル』の絵本から彼女が消えていない以上、そこに入り込んだのは偽者ということになる。

 犯人を追う捜査官は、なんとかお菓子の家に先回りして魔女を確保。彼女になり替わって子どもたちを迎え入れ、物語の筋書きどおりに動きつつ、偽グレーテルが正体を現すのを待っていたのだ。


 犯人はもともと少年ばかりを狙って誘拐を繰り返していたらしい。外見は幼化薬で誤魔化していたのだろうが、効果が切れればグレーテルとは似つかない三十路の女だ。ミニ丈と化したディアンドルが似合わないを通り越してエグい。

 彼女が連行されるのを見送りつつ、魔女役の刑事は顔の煤を拭った。


「先輩、大丈夫ですか? いくら防火服着こんでるからって、大型オーブンの中に閉じ込められるなんて、危険すぎますよ」

「髪くらいは多少焦げたかもな。まあこの手の捜査は身体張ってナンボだ、これくらい平気だよ」

「も~、タフぶっちゃって……」

「……心配したか?」

「な、……べ、べつに、そんなんじゃないですけどッ。……でも魔女って一応女だし、私がやっても良かったんじゃないかな、とかは、ちょっと思いましたけどね?」

「バーカ、てめえにゃ無理だ」

「なんでですかぁ」


 むうっと頬を膨らせる後輩刑事に、先輩刑事はひょいと背を向ける。


「……ガキを甚振る演技なんか、させられっかよ」

「え? 何か言いました?」

「なんでもねえ。とっとと現実そとに帰んぞ」


 そんなこんなで警察たちは引き上げていった。

 一方、ヘンゼルは現実世界の病院にて無事に本物のグレーテルと再会した。とはいえ彼女もすぐには復帰できなかったので、しばらくの間はボランティアが代役を務めることにはなったが、ひとまず『ヘンゼルとグレーテル』の物語は元通り。

 ちなみに偽グレーテルは複数の凶悪犯罪に加えてグレーテルの誘拐・殺害未遂で立件されて、もはや刑務所からは出られない身になったそうな。


 めでたし、めでたし。






**― ― ― ― *** ― ― ― ―**


「先輩、ところで作戦コード名のバーニングBってなんだったんですか?」

「バーニング・ババアの略だ」

「……ひどいセンス」

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